虎捕山(福島県飯舘村) ; 山津見神社の巡拝路

− 2002.1.14 (月) 晴れ −

 全国ロードマップを広げると、国道115号と国道399号の間(福島県相馬郡飯舘村)に「山津見神社」が記載されています。その山津見神社拝殿の裏山が、虎捕山(706m;とらとりさん)で山頂の岩場に本殿が祀られています。

 インターネットで探した山です。7時過ぎに岩沼を出発、霊山で道に迷い山津見神社の拝殿駐車場(登山口)に付いたのは9時30分でした。
 
虎捕山の山容 虎捕山鎮座山津見神社拝殿(登山口)
 山津見神社拝殿(登山口)から本殿がある山頂(虎捕山)まで650m、登り45分、下り25分でした。本殿裏手の岩場からは、安達太良山〜吾妻連峰〜蔵王連峰が一望でき、次に登る霊山の断崖も目の辺りにできました。

 2時間強かけて来て45分で登れる山(9:30−11:30、所要2時間)、それでも満足できた山として記憶に残りました。

 伝説の虎捕山、山津見神社の本殿がある岩場、素晴らしい眺望、それなのに何故か山の案内本で紹介されていない。道のりが短くても価値ある山は紹介して欲しいものです。
 
巡拝路周辺には奇岩怪石が 虎捕洞(墨虎が捕らえられた岩窟)
   
本殿手前の梯子場 山頂の本殿と岩場
山津見神社で戴いたパンフレットに書かれていた伝説を紹介します。(文字化けの可能性あり)

 後一條帝の御代(約900年前)真野の里に生まれ育ったといわれる橘墨虎と云う凶賊がおりました。墨虎は容貌魁偉、神通に長けた豪の者で常に部下を率き連れて村落を横行し民家を襲って財物を強奪し「墨虎の通る時は駅民皆縮みあがり遁げ惑う」状態となり良民は大いに難渋しておりました。墨虎は霊山に物見台を設けて遠近を一望するなど、勢力益々強大となり、当時の豪族たち皆墨虎に服従して朝命に従わず、まさに猛虎の如き勢いとなりました。

 後冷泉帝の御代永承6年(1051年)、源頼義公奥境鎮守のため下向し掛田に陣したとき、駅民達窮状を訴えて墨虎を退治して難を除き給えと哀願しましたので頼義公は部下に命じ墨虎を討たせる事になりました。

 墨虎は霊山の嶮に拠りよく戦いましたが遂に敗れ、単身亘理(宮城県)まで逃れましたが、又立ち戻って隠現出没捕られる事が出来ず、さすがの頼義公も大いに悩んでおりましたところ、或る夜夢の中に山の神が現れ「墨虎を獲んと欲せば白狼のあしあとをあみ追うべし」とお告げになられました。

 頼義公は直ちに臣藤原景道に追跡を命じました。景道は郷人菅野蔵人、今神助右エ門を嚮導者として山中に入り嶮しい山嶺、荊棘の中を踏み分けて探ね歩いてゆくと、果して獣跡が点々と一きわ高くつき立った巌石に向かって続いており、これを辿って遂に岩窟(籠石)に潜んでいた墨虎を見つけました。景道は憤然として「墨虎天罰免るべからず朝命の刃に伏せ」と叫びざま、逃れようとする墨虎めがけて短刀を擲って背より腹に刺し貫きました。

 遠近始めて安堵、頼義公大いに山神の威徳を感じ、山頂に祠を建て虎捕山神と御名を称えて報賽致しました。後、国司北畠顕家郷城を霊山に築かれた時頼義公の遺績を敬重し且つ大神の威徳により屡々戦捷したので篤崇敬したと云われます。また、墨虎を捕らえた事から虎捕山と呼び、刺は佐須と云う地名になったと云われます。虎捕山は、別名佐須山とも云います。