一夜山(長野県鬼無里村) ; 伝説とロマンの山里

− 2004.05.08(土) 快晴 −

 運が良ければ“クモマツマキチョウ”に会えるのではないかと期待し、鬼無里村の中央に位置する伝説の里山一夜山(いちやさん;1562m)に登ってきました。

 長野生まれの私が言うのもおかしなことですが、長野の里山は半端じゃない。何たって登山口に着くまでが大変なんです。山肌にへばりつく山村のメイン道路はガードレールもなく、すれ違いもままならず、路肩を踏み外したら何百メートルも転げ落ちる。登山道以上に気遣います。
 
戸隠連峰の左(南東)に見える一夜山 西越開拓地から見る一夜山
 大方の県道は林道と思って良いでしょう。病弱の愛車は急坂だとすぐに息切れを起こしてしまいます。よって、少し遠回りになりますが国道19号からオリンピック道路(県道31号大町街道)に折れ小川村から県道36号(信濃信州新線)で鬼無里村へ。

 家を8時50分に出て登山口に着いたのは10時20分でした。途中、小川村の“アルプス展望広場”と“星と緑のロマン館”で北アルプスを眺めました。左上の写真は“星と緑のロマン館”の先、鬼無里村との村境で撮ったものです。一夜山から眺めた撮影ポイント(Click Me !)です。
 
カラマツの林床にはニリンソウが満開 砕石場を横切る登山道
 登山道は、北斜面にあります。北斜面は山頂から人工断崖になっています。奥裾花ダム建設に使った砕石場跡のようです。登山道には大きな落石がゴロゴロしていたので、足元を見つめ聞き耳を立てて急ぎ足で登りきりました。

 登山道から振り向くと戸隠連峰最南端の西岳の岩肌が迫って見えました。山頂手前で登山道をキアゲハが横切りました。登山道脇のスミレに止まったのでシャッターを・・・・まさかのヒメギフチョウです。山頂は360度の大パノラマです。霞がかかっていたので富士山は見えませんでした。
 
振り向くと戸隠連峰最南端の西岳が迫る 山頂手前でひめぎふ(鬼女紅葉)が・・・・
 登山口10時20分、山頂11時40分(4600歩)、下山12時10分、登山口13時00分(8000歩)。また登りたい山です。先日の五里ケ峰は1週間も太腿が痛かった。それに比べ一夜山は落石の心配をしたものの楽しい山歩きでした。
 
山頂は広く360度の大パノラマ 北アルプス北端(白馬岳)まで見渡せる
伝説とロマンの山・・・・一夜山伝説と紅葉伝説(信州山歩きマップより転載)
■一夜山
 昔から風光明媚のこの村は、四方が峻峰に取り囲まれて要塞堅固の地であったため、天武天皇は都を鬼無里に移そうとした。ところが、この地に棲む鬼達がこの“遷都計画”を知り「この仙境に都を定められては自分達の住処がなくなってしまう。何とか邪魔ををしなければ」と、一夜でこの山を築き上げて妨害し、天皇は止む無く遷都を思い止まれた。しかし天皇は鬼どもの行為を憎み、阿部比羅夫という者に命じて一夜山の鬼どもを残らず退治したという。一夜山は、このとき以来一夜山(ひとよやま)とか夜出山(よんでさん)と呼ばれている。

■平安時代。京の都に紅葉という琴を教える美しい女性がいました。源経基の目にとまり側室として寵愛を受けるようになりました。やがて経基の御台所が病気で倒れ、手当てや祈願の甲斐もなく病気は重くなるばかりでした。人々は「紅葉が呪いの祈祷をしている」と噂したことから、経基は怒って紅葉を戸隠の山中に追放してしまった。紅葉は水無瀬(大昔、鬼無里は湖で水無瀬と呼ばれていた)に辿り着いた。美しいうえに読み書き、そろばん、歌舞音曲など教養のある紅葉を村人たちは尊敬し、京をまねて内裏屋敷と呼ぶ館を造ってやった。紅葉も内裏屋敷の西を西京、東を東京と名付けたりして都を偲んでいた。しかし、山奥の暮らしに耐え切れず乱心し、親切な村人たちの気持ちをもてあそび夜な夜な近隣の村を荒らしまわり鬼女として怖れられるようになってしまった。紅葉の悪行は京にも伝わり、信濃守平維茂に鬼女討伐の命が下された。初戦、維茂軍は鬼の形相になった紅葉の妖術にかかり退散したが、別所温泉の北向観音に必勝祈願して授かった“降魔の剣”によって紅葉を攻め荒倉山を血に染めた激しい戦いのすえ紅葉を征伐した。そのとき紅葉は33歳だったという。これ以来、水無瀬は“
”となったという。今から約千年前のことであった。