芭蕉句碑 「例幣使街道」周辺紀行
 2014.03.14 (金) 曇/小雨/晴
 ネット検索で気付いたことだが、栃木には芭蕉の句碑が至る所にあります。今回は先の「旅の未知草」と異なり「こんな所に・・・・」という句碑を見て回りました。「句碑」の画像はクリックすると拡大写真でご覧頂けます。
 足利市助戸に曹洞宗「定年寺」(じょうねんじ)というお寺があります。駐車場脇の梅畑は満開を迎えていました。
 足利市の某建築会社でログ板を引取るのは9時、時間の有効活用を図るため足利駅周辺の芭蕉句碑めぐりを先行させました。
 
 
 「定年寺」の山門をくぐると右手に芭蕉句碑があります。①「子規 大竹藪を もる月夜」(ほととぎす おおたけやぶを もるつきよ)で、嵯峨の落柿舎に滞在した折りに詠まれた句です。
 足利公園の南に小高い愛宕山があり、そこには愛宕神社があります。
 芭蕉最期の最高傑作
②「此の秋は 何で年よる 雲の鳥」(このあきは なんでとしよる くものとり)であり、大阪星光学院内の浮瀬亭俳跡(芭蕉園)にある句と同じです。
 
 足利市から国道292(日光例幣使街道)を北上、佐野市出流原(いずるはら)町にある「磯山弁財天・出流原弁天池」に向かう。
 磯山弁財天は釘不使用の舞台造り、弁天池湧水は県指定天然記念物であり名水百選にも選ばれている。
 
 
 磯山弁財天の石段を昇り、最上部にある「磯山宮」から出流原町を見渡した。眼下には弁天池湧水を用いた磯山公園養魚場が印象的で記憶に残る。ちなみに「日光例幣使(れいへいし)街道」とは、徳川家康の没後に日光東照宮に幣帛を奉納するための勅使が通った道です。
 
 出流原弁天池畔に芭蕉句碑③「此のあたり 目に見ゆるもの みな涼し」(このあたり めにみゆるもの みなすずし)で、岐阜湊町十八楼とおなじ句です。「笈の小文」の旅の帰路、岐阜の油商賀島善右衛門の別邸に招かれて詠んだ句で、その邸に「十八楼」と命名しその謂れを書いた一文が「十八楼の記」だとのことです。
 
 佐野市戸奈良町に曹洞宗種徳院(しゅとくいん)というお寺があり、本堂横の石段を昇ると「道了宮」(どうりょうぐう)という小さな神社があります。芭蕉の④「鐘撞かぬ 里は何をか 春の暮」(かねつかぬ さとはなにをか はるのくれ)という当地の句碑があります。→⑭参照。
 
 佐野市田沼町を抜ける県道115はお祭りのため通行止、不案内の迂回路を通り佐野市富士町唐沢山に向かった。唐沢山神社(藤原秀郷公の居城跡)で「大炊井戸」(おおいのいど)に芭蕉句碑⑤「城跡や 古井の清水 先間む」(しろあとや ふるいのしみず まずとわん)という岐阜公園と同じ句です。→「城跡や 古井の清水 まづ訪はん」
 
 大炊井戸から唐沢山神社に向かい数10mの所に「桜の馬場」があり山側に芭蕉句碑⑥「初桜 をりしもけふは よき碑也」(はつざくら をりしもけふは よきひなり)という上野市の菅原神社とお梨句です。この後、唐沢山神社(唐沢山城)散策路を一回りしました。
 山を下る途中、見晴らしの良いカーブがあり車を止め里(富士町)を見渡しました。
 これから行く曹洞宗(開山時は天台宗)「洞雲山泉應院」(せんのういん)が指呼できました。
 
 当院に限らず見て回ってきたお寺さん。寺院周囲の民家数と寺院規模に大きなギャップを感じました。多くが開山が古く立派なお寺さんばかりです。いらぬ詮索になると思いますが檀家さんの多さに驚きました。かつて探訪した「寺町盛岡」を思い出した
 
 
 「泉應院」にある芭蕉句碑は⑦「つく鐘も ひびくやう也 蝉の声」(つきかねも ひびくやうなり せみのこえ)という岐阜の稲葉山城跡で詠まれた句。栃木には(奥の細道と無関係な)芭蕉句碑が多い訳をお聞きすると「好きな人がいたのでしょうね」とお答えになられた。小画像は山門にあるもの、欄間彫刻を拝見したかった。
 
 「関東五社稲荷神社」(大栗稲荷神社)はカーナビ設定が出来なく完全に迷い犬伏新町のお店で道を尋ねる。この場所って一番先に通ったよ。佐野市大栗町の「大栗稲荷神社」はとても小さなお宮、芭蕉句碑⑧「松すぎを ほめてやかぜの 薫る音」(まつすぎを ほめてやかぜの かおるおと)は岐阜市加納清水信浄寺と同じ句。
 佐野市佐野駅周辺の「妙音寺」「佐野女子高」は計画段階で除いた。
 岩舟町にある霊山岩舟山にある日本三大地蔵尊「高勝寺」に向かう。
 霊山岩舟山の遠景を県道67から外れ農道から撮影した。
 
 
 写真の岩舟山を右から回り込み裂け目の辺りから急坂の簡易舗装道を登っていく。周囲に点在する採石場跡が要塞のように見える。小画像は山頂部にある高勝寺の仁王門で横に駐車場がある。グーグルマップ(標高)で計測すると岩舟駅(標高37m)と岩舟山(標高107m)の標高差(崖の高さ70m)は垂直に近い。
 
 高勝寺に芭蕉の句碑は2つある。仁王門から本堂とは逆方向、西院の河原堂に行く石段がある。その入口右手にある句碑が⑨「野を横に 馬ひきむけよ 時鳥」(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)で、殺生石へ向かう途中即興で詠んだ句で、句碑めぐりの第1回目に黒羽の常念寺で見ている。
 時間にゆとりがある旅なら境内をじっくり見て回りたいお寺でした。
 本堂に行き来する屋根付橋が印象的だったので撮影した。
 句碑めぐりなので建物より石碑撮影が主になり三重塔は撮影していなかった。
 
 
 芭蕉句碑の誤撮影を避けたく参拝者に声を掛けたが関心がないのか全く話が通じなかった。何回も呼鈴を鳴らしお守りを購入した後に確認した。(2句とも撮影した後で誤っていなかった)
 
 本堂右手奥から奥の院に続く石段があり、その登り口に芭蕉句碑⑩「父母の しきりにこひし 子規の声」(ちちははの しきりにこひし きじのこえ)がある。高野山奥の院参道にある句と同じらしい。この石段の先に山頂があり展望台になっているとか・・・・。
 
 右画像は鐘楼で修復中のようだ。高勝寺の滞在時間は30分を予定していた。少し超過したところで下山した。車が通行出来るのは裏参道で、里に降りたところに「火の見やぐら」があった。兄から「近々消滅し歴史遺産になるかも・・・・」と聞いたことを思い出したので撮影しておいた。
 芭蕉の「おくのほそ道」に出てくる「室の屋嶋」は栃木市惣社町にある「大神神社」(おおみわじんじゃ)にある。
 鬱蒼とした杉林の中にあり、時しも小雨が降り出し悪条件下での撮影になった。
 
 大和国三輪山の大三輪神社の分霊を奉祀し建立され別名「八島大明神」とも言われ8つの島に八神が祀られている。池から絶えず水蒸気が立ち昇ることから、煙の名所「室の屋島」と称されるようになったとのこと。八神は芭蕉句碑側から順に「筑波神社」「天満宮」「鹿島神社」「雷電神社」「浅間神社」「熊野神社」「二荒山神社」「香取神社」となっている。
 
 ここには多くの歌碑もあるが掲載は目的からして芭蕉句碑に留める。⑪「いと遊びに 結びつきたる けふりかな」(いとゆうに むすびつきたる けむりかな)という当地で詠まれた句です。
 芭蕉句碑に並んで奥の細道「室の八嶋」の条文の説明書きがあった。
 ここから推測すると「曽良」という随伴者は知識が豊富な徘諧師だったように思えました。
 
 ところで、その「曽良」は「河合曽良」(かわい そら)という俳諧師(1649-1710)で信州人。生まれは信濃国下桑原村(現、諏訪市)で奥州・北陸の旅(おくのほそ道)に同行した芭蕉の弟子です。そんなことから長野県には曽良の句碑があります。そのうちに見て回りたいと思います。
 
 次は壬生町福和田です。グーグルマップのストリートビューでカバーされない空白地で句碑の場所を特定するに苦慮しました。カーナビでも設定出来ません。そんな場所ゆえ迷いに迷いました。さて句碑は⑫「くたびれて 宿かる頃や 普ぢの花」(くたぶれて やどかるころや ふぢのはな)痛く同感。天理市三昧田町山街道にもある句です。
 
 最後の鹿沼市、小雨も降ってきたので句碑がない(悔いが無い)光太寺はパスしようと思いました。市内で今宮神社に曲がる小路を通過してしまい結局「光太寺」の前に曳かれて来ました。此の寺には「芭蕉の笠塚」(菅傘供養の石塚)があります。右上写真の碑の後ろにある小石です。芭蕉鹿沼一宿の地との伝承があります。→⑭参照
 
 今宮神社は立派なお宮でした。裏手の小山に句碑があります。薄暗い中での逆光と撮影には不向きでした。⑬「君やてふ 我や荘子の 夢心」(きみやてふ われやそうじが ゆめごころ)は当地にある句碑だが「奥の細道」とは無関係、「荘子」にある胡蝶の夢から採った句で「君や蝶 我や荘子が 夢心」の方が解りやすい。
 
 小雨の中、傘を差さずに「掬翠園」(きくすいえん)に徒歩移動。16時だが薄暗く感じる。掬翠園にある句碑は⑭「入あひの かねもきこへす はるのくれ」(いりあひの かねもきこへす はるのくれ)、「奥の細道」旅の途中、高久の門人覚左衛門に与えた真蹟の色紙「鐘撞かぬ 里は何をか 春の暮」の別案かもしれないとの説もある。
 掬翠園から今宮神社に戻る途中に「芭蕉書簡の碑」があり⑮「君や蝶我や荘子が夢心」(きみやちょう われやそうじが ゆめごころ)が刻まれていた。
 今は廃寺となった真言宗正徳院の境内跡地に残る薬師堂にある。
 
 
 鹿沼ICを17時に乗り仙台着20時半、春の嵐の如き駆足の「旅の未知草」(70km=930-860km)であった。