芭蕉句碑 ; 奥の細道“出羽路編” |
2014.09.19(金) 晴 |
21時55分に家を出て、上越から日本海岸を北上、日の出(5時20分)までの調整休憩地である道の駅「あつみ」に着いたのは3時52分、予定した7時間をほぼ1時間の短縮という好調な出足で妻が用意した朝食を食す。 | ||
【出羽路の日の出】鶴岡市温海 | ||
最初の地点を確認(夜明前)してから2番目に向かう。 「立岩海底温泉」にある句碑の北側に芭蕉・曾良も見た「塩俵岩」(玄武岩脈の岩塊節理)と南側に「立岩」(玄武岩の柱状節理)がある。 |
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【熊野神社】鶴岡市温海温泉街 | ||
芭蕉は鼠ヶ関へ直行、曾良は一歩遅れ温海温泉で入湯。この別々の行程が「奥の細道での謎の一つ」とされている。 これには訳があり、訪れる相手を曾良が聞き違えたことに芭蕉が気を損ねたのでは、そう私は思うが。 芭蕉は創作意欲を失い当地での発句はない。そんなことから「芭蕉供養碑」が建てられたのだろうか。 |
【立岩海底温泉】鶴岡市温海 | ||
芭蕉句碑は、01「あつみ山や 吹浦かけて ゆふ凉み」(あつみやまや ふくうらかけて ゆうすずみ)、「奥の細道」旅中、象潟からの帰路に詠んだ句である。(説明板) |
【山王日枝神社】鶴岡市山王町 | ||
山王日枝神社(さんのお ひえじんじゃ)の境内右手に「草木食の塔」があり、左側を抜け太鼓橋を渡ると厳島神社がある。 その左手に「長山家」(鶴岡滞在地)で詠んだ芭蕉句碑がある。 |
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芭蕉句碑は、02「珍しや 山をいで羽の 初茄子び」(めずらしや やまをいではの はつなすび)、「奥の細道」旅中、鶴岡で3日間滞留した長山重行宅で詠んだ句。 |
【長山邸跡】鶴岡市山王町 | ||
日枝神社から徒歩5分(300m)の場所にある。 長山重行は鶴岡藩士、芭蕉と曾良が滞在したところだ。現在は駐車場の一画になっていた。 |
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芭蕉句碑は、03「めづらしや 山をいで羽の 初なすび」(めずらしや やまをいではの はつなすび)、「奥の細道」旅中、羽黒山から鶴岡入りした芭蕉と曾良は鶴岡藩士長山重行亭を訪れた。その際の挨拶吟。(説明板) |
【内川乗船地跡】鶴岡市山王町 | ||
芭蕉・曾良は鶴岡長山家に3日間滞留した。 その長山家から2丁足らずの所に「内川」に架かる「大泉橋」のたもとから川舟に乗って内川・赤川・最上川と下って酒田に向かった。 |
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地図で確認すると赤川は日本海に流れ込んでいる。さて、芭蕉・曾良は最上川から酒田に行けたか・・・・実は昭和2年(1927年)に最上川下流南岸に流れ込んでいた赤川を直接日本海に流れ出るよう工事したのだった。 | ||
最初の計画では「金峯山神社」に行く予定であったが、「羽黒山」を調べているうちに家を出る時刻を2時間繰り上げてでも行くべしという結論に達した。よって「金峯山神社」は取り止めにした。 |
【羽黒山の山麓部】「大鳥居」「門前町手向(とうげ)の宿坊街」「髄神門から五重塔」。 | ||||
①大鳥居 | ②門前町「手向」の宿坊街 | ③随神門 | ||
④末社羽黒山天地金神社 | ⑤祓川に架かる神橋と須賀の滝 | ⑥五重塔(国宝) |
【三山大愛教会】鶴岡市羽黒町 | ||
「大進坊」と道路を挟んで反対側に「三山大愛教会」がある。 ここには、芭蕉句碑が3碑、曾良句碑が1碑ある。句碑07と三山三句碑08、句碑09、句碑10がある。 |
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芭蕉句碑、07「無玉や 羽黒にかへす 法の月」(そのたまや はぐろにかえす のりのつき)、08「涼風や ほのミか月の 羽黒山」(すずしさや ほのみかづきの はぐろやま)、09「雲の峯 いくつ崩れて 月の山」(くものみね いくつくずれて つきのやま)。曾良句碑10「かたられぬ ゆどのにぬらす 袂かな」(かたられぬ ゆどのにぬらす たもとかな)。いずれも「奥の細道」旅中、出羽三山詣での作。 |
【羽黒山の山頂部】「山頂部」から「三ノ坂」「南谷」を往復。 | ||||
⑦鐘楼と建治の大鐘 | ⑧出羽三山神社参集殿 | ⑨三神合祭殿と鏡池 | ||
⑩三ノ坂 | ⑪羽黒山杉並木 | ⑫南谷 |
【南谷別院跡】鶴岡市羽黒町 | ||
芭蕉句碑は、14「有難や 雪をかほらす 南谷」(ありがたや ゆきをかおらす みなみたに)、「奥の細道」旅中、出羽三山詣での作。 | ||
羽黒山の山頂鳥居から急坂の石段「三ノ坂」を歩幅が合わないので蟹股で下る。「南谷」への分岐からの道は平坦だが泥濘で足元が滑る。撮影後の「三ノ坂」の登りは「二ノ坂」に次ぐ急坂、今度は2段上りだ。 |
【芭蕉上陸の地】庄内町清川 | ||
芭蕉・曾良は「本合海」で乗船し最上川を約6里下り、当地「清川の関」で上陸し「羽黒山」に向かった。 国道47号を横切り最上川の舟着場から上流方向を当時を偲んで撮影してみた。 |
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芭蕉句碑は、15「五月雨を 集めて早し 最上川」(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)。「奥の細道」旅中、この先に向かう大石田の船宿(高野平左衛門)で行われた句会での作。発句は「五月雨を 集めて涼し 最上川」であった。(説明板) |
【最上川下り】戸沢村舟乗場 | ||
「旅の未知草」旅程表と睨めっこ、「芭蕉上陸の地」を後にしたのは10時17分(予定11時)だった。 約40分も先行しているので「最上川&舟下り」を撮影したく好適地を捜しながら走った。 |
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少し手前に、戸沢村の「白糸の滝」(日本の滝100選)があることを知っていた。ドライブインには「ライン下り」のことが大きくPRされていたので最上川に浮かぶ舟が見られるかと期待したのだが・・・・。 |
【芭蕉乗船の地】新庄市本合海 | ||
宮城在住時、秋田の象潟まで岩牡蠣を食べに行ったことがある。 帰路、夕日に照らされる「芭蕉乗船の地」を撮影したことを思い出した。今回は逆光で撮影には悪条件であった。 |
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芭蕉句碑は、16「五月雨を 集めて早し 最上川」(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)。「奥の細道」旅中、大石田での作。(河川敷から「最上川下流方向」を撮影)。ここで午前11時半、旅程タイムの余裕は約10分程度に縮まった。 |
【市民プラザ】新庄市大手町 | ||
心配していた通り新庄バイパス等の交通網が整備され旧ナビとのギャップが大きく難儀した。 それでも「市民プラザ」は迷わずに正面に辿り着き、句碑前に横付けして撮影した。 |
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芭蕉句碑は、17「風の香も 南に近し 最上川」(かぜのかも みなみにちかし もがみがわ)。「奥の細道」旅中、新庄での作。「出羽路」では地元発句の句碑が多く「旅の未知草」としては豪華で楽しい。 |
【柳の清水跡】新庄市金沢 | ||
計画立案時から位置確認に苦慮しただけあって迷いに迷った。 最終的にGSで道を尋ねると「先程から行き来していましたよね」という有様。ナビは近くで目隠しを外されどうぞと放り出される。 |
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芭蕉句碑は、18「水の奥 氷室尋る 柳哉」(みずのおく ひむろたずぬる やなぎかな)。「奥の細道」道中、上記17番句碑と同じところで詠んだ句。 |
【猿羽根山地蔵堂】舟形町 | ||
芭蕉が猿羽根山峠から眺めた最上川の風情を詠んだ句。19「風の香も 南に近し 最上川」(かぜのかも みなみにちかし もがみがわ)。 | ||
元禄2年6月2日、「奥の細道」旅中、大石田から羽黒山に行く途中、新庄きっての豪商澁谷九郎兵衛宅にて「水の奥 氷室尋ぬる 柳哉」と詠んでいる。→18番句碑「柳の清水跡」。左画像の左側の「記念碑」の拡大。 |
【最上川舟役所跡/大門】大石田町 | ||
「最上川舟役所跡/大門と堀蔵」は、室町時代に始まった大石田河岸で元禄時代に最も賑わい最上川舟運の中心になった。「舟役所」は寛政4年(1792年)に置かれた。大石田大橋を写し込みたかったが工事中のため覆われ全く絵にならなかった。 |
【養泉寺】尾花沢市梺町 | ||
芭蕉句碑は「涼し塚」で知られ、23「凉しさを 我か宿にして ねまる也」(すずしさを わがやどにして ねまるなり)、24「鹿子立 をのへのし水 田にかけて」(かのこたつ をのへのしみず たにかけて)/曾良。昭和63年新たに「涼し塚」後方に建立された。 |
【清風歴史資料館】尾花沢市中町 | ||
鈴木清風は芭蕉と親交のあった俳人。本業は「島田屋」という商家の三代目で「紅花大尽」と呼ばれる尾花沢の豪商。資料館は旧丸屋「鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を清風宅の隣に移転復元したもの。予定時刻に対し5分先行まで取り戻したが見学する余裕がなく先を急ぐことにした。 |
【堺田の分水嶺】最上町堺田 | ||
「堺田の封人の家」の前を「陸羽東線堺田駅」に向かうと突き当りが駅前駐車場、そこに「奥羽山脈分水嶺」がある。 平坦地(奥羽山脈、標高338m)にある分水嶺だ。 |
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「封人の家」の脇を流れる名無しの用水路が実は大河、「最上川」へ102kmの旅を経て日本海に、「北上川」へ116kmの旅を経て太平洋へと向かう。残念ながら双方の源流ではない。「流路」の説明板 |
【堺田の封人の家】最上町堺田 | ||
芭蕉句碑は、29「蚤虱 馬の尿する 枕元」(のみしらみ うまのばりする まくらもと)。「奥の細道」道中、堺田で詠んだ句。 |
【尿前の関跡】宮城県大崎市 | ||
1712年建立と言えば芭蕉・曾良が中山越えをしてから約80年後という古い句碑だ。芭蕉句碑、30「蚤虱 馬の尿する 枕もと」(のみしらみ うまのばりする まくらもと)。「奥の細道」道中、堺田で詠んだ句。 |