旅の未知草 「酒田湊-象潟」と世界遺産「平泉」
 2014.10.17(金) 雨/曇/晴
 「奥の細道と題した旅の未知草」は、「間々田(3/28)~今町(7/6)」の旅程で残す「平泉」と「酒田~象潟」を埋めるべく770km/dayの超長旅を決行した。「芭蕉と曽良の句碑めぐり」と切り離した「曽良随行日記」ならぬ「史跡・景勝めぐり」を是より紹介しましょう。
 国道7号(羽州浜街道)の新潟山形の県境にある「鼠ヶ関」は「奥の細道」に出てくる。「念珠の松庭園と鼠ヶ関址」前で停車・・・・流石のデジカメも夜明け前の暗闇、民家があるのでストロボを焚いたら不審者扱いされかねない。
 22時に家を出て、5時30分に「山居倉庫」着。東の空が薄っすらと明るく青空、北の空は雨雲で真っ暗、新井田川を渡り対岸から「山居倉庫」を撮影し「山居橋」を渡り「ケヤキ並木」に差し掛かかると激しい「にわか雨」が降ってきた。
「山居倉庫」 山形県酒田市山居町
 1893年(明治26年)に酒田米穀取引所の付属倉庫として、旧庄内藩酒井家により最上川と新井田川に挟まれた通称「山居島」に建てられた。この後「芭蕉ゆかりの地」を含め「相馬楼」の撮影を終えてから「リベンジ撮影」に戻った。
 
「本間家旧本邸」 山形県酒田市二番町
 「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿さまに」と歌われたほどの庄内の豪商。第二次世界大戦前までの本間家は「日本一の大地主」の名を馳せていた。旧本邸は武家屋敷、別館は店舗になっている。
 
「旧鐙屋」(あぶみ) 山形県酒田市中町
 酒田を代表する廻船問屋で、江戸時代から明治時代を通じて繁栄(井原西鶴の日本永代蔵にも紹介)し日本海海運に大きな役割を果たした。また、酒田三十六人衆の筆頭格として町年寄役を務め町政にも重要な役割を果たした。
 
「旧白崎医院」(外科、2階は住居) 山形県酒田市南新町
 大正8年に建てられた酒田唯一の木造洋風建築。酒田大火(昭和51年)後に市に寄贈、保存のため現在地に移転。
 
「日枝神社」(下日枝神社) 山形県酒田市日吉町
 立派な随身門(本間家寄贈/大火後の再建も本間家)で「鳴り龍」の音か聞こえるようです。試すのを忘れたが・・・・。
 
「皇大神社」(神明さん) 山形県酒田市日吉町
 神社前の通りは「鶴岡街道」と言われる。「酒田湊繁栄の証」なる標識(左写真中央部)が立っている。標柱(右写真中央部)には鶴岡から赤川を舟で下ってくる旅人(芭蕉も含む)で賑わったと書いてあった。
 
「山王くらぶ」 山形県酒田市日吉町
 
舞妓茶屋・雛蔵畫廊「相馬楼」(竹久無夢二美術館) 山形県酒田市日吉町
 北前船で栄えた酒田湊、その主役を担う酒田商人が育んだ料亭文化を今日に伝える「山王くらぶ」「相馬楼と舞妓坂」
 
「日和山公園」 山形県酒田市南新町
 「文学の散歩道」(29基の石碑)、「千石船」(1/2復元の北前船)や現役引退で移設された「洋式木造六角灯台」
 
「旧青山本邸」 山形県遊佐町
 漁業(ニシン)で成功をおさめた青山留吉の生涯や青山家繁栄を展示。北海道小樽市に「小樽貴賓館/旧青山別邸」
 
「出羽二見」と「十六羅漢岩」 山形県遊佐町吹浦
 伊勢の二見浦になぞらえた「出羽二見」と「十六羅漢岩」(水産庁「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財産百選」
 
「蚶満寺」 秋田県にかほ市象潟町
 芭蕉が訪れた頃は「象潟地震」で隆起する前、「蚶満寺」の裏庭には「舟つなぎ石」がある。地震による象潟の隆起度は180~200cm、大男が沈む高さだ。干拓事業で島も削られて小さくなったのか・・・・。
「蚶満寺」で教えて頂いた「九十九島」のビューポイント(3枚合成/約170°)
 紀元前466年に鳥海山が噴火し大規模な山体崩壊が起きた。その際の流れ山が日本海に流れ込み浅い海と多くの島々をつくった。やがて堆積作用により浅海は砂丘によって仕切られ潟湖がつくられ、小さな島々に松が生い茂り風光明媚な象潟の地形が出来上がった。
 江戸時代までは「九十九島」(くじゅうくしま)「八十八潟」が景勝地となり・・・・「東の松島、西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の「奥の細道」でも「松島は笑ふが如く、象潟は憾むが如し」と評され「象潟や 雨に西施が ねぶの花」と読まれた。
道の駅「象潟ねむの丘」6階展望室からの「九十九島」(2枚合成/約150°)
 文化元年(1804年)の象潟地震で海底が隆起し陸地と化した。その後、干拓事業で水田と化し歴史的な景勝地が消えようとしたが、蚶満寺の住職の呼び掛けで保存活動が高まり今日の姿を保つに至った。往年の「多島海」を髣髴させる風景を眺めるには「田植え前」の水張りが行われた時期が最高であろう。
 
道の駅「象潟ねむの丘」6階展望室から眺める「日本海」
 雨上がりで霞む陸地(逆光)とは別世界の眺望だ。眼下の海辺の公園には白くポツンと見える「西施像」が印象的だ。
 
中尊寺「金色堂」 岩手県平泉町   中尊寺「旧覆堂」
 「世界遺産・平泉」の正式名称は「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」で、その構成資産は「中尊寺」「毛越寺」「観自在王院跡」「無量光院跡」「金鶏山」の5つ、追加登録を目指している「柳之御所遺跡」「達谷窟」等がある。今回は「芭蕉句碑」めぐりが目的なので「句碑」周辺について撮影した。
 
中尊寺「弁慶堂」   中尊寺「本堂」
 
中尊寺「峰薬師堂」   中尊寺「弁財天堂」
 「峰薬師堂」左手山肌に、「奥の細道」旅中ではない作の草臥れて 宿かる頃や 藤の花」の句碑がある。
 
中尊寺「釈迦堂」   中尊寺「能楽殿」
 
「高館義経堂」
 華やかな「世界遺産/平泉」の一画(それも細長い崖縁)に、忘れ去られたかのように「源義経」が最期を遂げたとされる「義経堂」(ぎけいどう)がある。芭蕉句碑(文学碑)がなければ立ち寄らなかっただろう。
 
「毛越寺/本堂」 岩手県平泉町   毛越寺の浄土庭園「大泉が池」
 「毛越寺」の最盛期は、堂塔40僧坊500を数え「中尊寺」をしのぐほどの規模と華麗さであったようです。藤原氏滅亡後に度重なる災禍に遭い全ての建物が焼失されたとのことです。今でも「その風格」を感じ取ることが出来ます。時間の関係で「芭蕉句碑」の撮影に留めたことは残念です。(宮城在住時に全体を拝観しています)
 
「達谷西光寺窟毘沙門堂」 岩手県平泉町   「厳美渓」 岩手県一関市
 「中尊寺」で予想外に手間取ったので「平泉」では「芭蕉句碑めぐり」と「世界遺産の拝観」に徹しようと決めた。ところが「毛越寺」を後にする時点で予定時刻通り、気になるのは日没の迫り具合だ。(日の出は確認していたが日没は見逃していた)・・・・「達谷西光堂」を拝観し「厳美渓」の撮影を終えたのは16時45分、日の入り時刻寸前だった。
 私の「奥の細道句碑めぐり」も、芭蕉・曽良の旅路「間々田」から「直江津」までを辿り終えた。今後の予定で決まっているのは、11月の会議が仙台でなく郡山なので「市振」から「新潟市」その先は検討中だが「会津」(喜多方を含めるか)、帰路は明るいうちに「白河(聯芳寺)」を予定。12月からの冬期は東京経由なので「東京散歩」として「深川」と「千住」を予定。そのあかつきには「奥の細道句碑めぐり」は「旅立ち」から「越後」までが終わる。来年の梅雨明けを待って「蝶の撮影」も兼ね「越中」から旅の終わり「大垣」までを計画してみよう。来年の「写真展」の一つを「旅の未知草“奥の細道”」として総括するのも良かろう。