未知草初め 「奥の細道」旅立ち編
 2015.01.16(金) 快晴
 
 今回の「旅の未知草」は12月出張で計画したものだが、直前に出張を取り止めたので未知草もなし。年が明けての「未知草初め」が「深川界隈」(江東区)「千住矢立初めの地」(荒川区・足立区)と因縁めいた巡り合せだ。
 12月に続き天気予報は最悪、「南岸低気圧」の通過で終日雪降り、小止みになった夕方、タイヤチェーンを装着し早朝の旅立ちに備えた。4時起床、車の周囲と除雪車が作った雪の土手を取り除き5時に家を出た。
 第1部は「深川界隈」、佐久平からの高速バスはラッシュ時ということで新宿駅東口に40分遅れで到着、地下鉄を乗り継ぎスタート地点の「清澄白河駅」に降りる。東京の空は雲一つない「南岸低気圧一過」・・・・気分爽快!
  【採茶庵】「奥の細道」出立の地
 
 芭蕉・曾良は「採茶庵」隣りにある「海辺橋」下から舟に乗り「仙台堀川」から「隅田川」に出て川上の「千住」へと旅立っていった。今日一日、その後を追ってみよう。(AM 9:56)
【水辺の散歩道】

 
 
 仙台堀川沿いにある「水辺の散歩道」、特に「海辺橋」から「清澄橋」までの200mを「芭蕉俳句の散歩道」と名付けられ「奥の細道」より以下18句が木製立看板で並んでいた。
 「旅の未知草」・・・・⑪までが走馬灯のように脳裏を駆け巡った
①「草の戸も」  ②「行春や」 ③「あらとうと」 ④「野を横に」 ⑤「早苗とる」 ⑥「桜より」
⑦「夏草や」  ⑧「五月雨の」 ⑨「閑さや」 ⑩「五月雨を」 ⑪「象潟や」 ⑫「荒海や」
⑬「わせの香や」  ⑭「寂しさや」 ⑮「山中や」 ⑯「名月や」 ⑰「石山の」 ⑱「蛤の」
 「ひとりたび 奥の細道 弥生展」と題し、今年の3月1日~31日迄、道の駅「雷電くるみの里」で「旅立前~越後路途上」までを「旅中句」(70余りの句碑)で綴る写真展を行う。今日は、その「序」にあたる部分の撮影だ。
【清澄庭園】泉水、築山、枯山水を主体とした「回遊式林泉庭園
 東京から仙台は「高速夜行バス」を利用する。日の短い時期なので時間はたっぷりあるものの撮影時間は自ずと限られてくる。芭蕉句碑の撮影が目的で入園したが、65歳以上半額との心遣いや折角なのでじっくり見て回った。記憶によれば東京の庭園では「浜離宮」以来とウン十年ぶりだ。
 清澄庭園にある芭蕉句碑は、昭和9年に芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)から移転されたもの。
 下の小画像クリックで説明板が拡大表示される。
 
 
 句碑①「ふる池や 蛙飛こむ 水の音」(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)/(蛙合)。貞享3年、芭蕉庵で門弟(錚々たる顔ぶれ)を集め「蛙」を主題とする会を催したときの作。
  【臨川寺】
   深川に移り住んだ芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、ここ臨川寺に参禅に通ったと伝えられている。
 芭蕉が「桃青」と名乗ったのは禅師によるものという。
 
 芭蕉ゆかりの寺として「芭蕉由緒の碑」や「墨直しの碑」が残っていた。こじんまりとした墓地、表札が無ければ普通のお宅といった感じでした。ここも、グーグルのストリートビューで確認済みなので迷うことはなかった。
【萬年橋】小名木川左岸  
 小名木川が隅田川に流れ込む左岸にも「隅田川テラス」がある。
 テラスへの降り口の休憩所で見つけた「ふる池や・・・・」の句。江戸っ子の「粋」を感じた。
 
 
 江戸時代の「萬年橋」は大きく高く虹型で、その優美さから葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「深川萬年橋下」、歌川広重の「名所江戸百景」の「深川萬年橋」として取り上げられている。ここからの富士山は大正時代までは眺められたようだが、今日は高層ビルに遮られ眺めることは出来ないようだ。
  【史跡展望庭園と清洲橋】
   隅田川に架かる「清洲橋」「永代橋」「勝鬨橋」は国の重要文化財に指定されている。
 「清洲橋」「永代橋」は、関東大震災の復興事業として建設された。
 
 仙台出張で利用する高速バスの車窓からライトアップされた綺麗な橋だと、かねてから気になっていた。この位置が最も美しいとされている。小名木川対岸には「芭蕉記念館分館史跡展望庭園」の芭蕉像が見える。隅田川テラスでは、ジョギングや散歩をする人や釣り人が楽しんでいた。
【芭蕉稲荷神社】芭蕉庵跡  
 「芭蕉庵」があったとされる場所で記念碑や句碑が所狭しと立てられていた。
 下の小画像クリックで説明板が拡大表示される。
 
 
 「芭蕉稲荷神社」前の小路は狭い。その上、神社前に車が止まっていたので撮影距離が保てなく試行錯誤、やっとの思いで全景写真を撮った。神社内も狭く立ち膝姿勢での撮影も適正距離を保てなかった。
 「芭蕉稲荷神社」にある記念碑
 記念碑、左より「芭蕉庵跡」史跡(昭和56年)、「奥の細道旅立参百年記念碑」(平成元年)、「俳聖芭蕉翁生誕参百五十年祭記念碑」(平成6年)と新しいものばかりだ。神社自体、対象6年の津波被災時に石造の蛙が発見され、この地に芭蕉庵跡として芭蕉稲荷神社が建造されたもの。(いずれも画像クリックで拡大)
 「芭蕉稲荷神社」にある句碑および準句碑
 句碑②「ふる池や 蛙飛こむ 水の音」(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)/(蛙合)。貞享3年、芭蕉庵で「蛙」を主題とする会での作。
 集まった門弟は、仙化をはじめ蕉門十哲中4名/基角・嵐雪・杉風・去来等を含む錚々たる顔ぶれだった。
 仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようだ。
 芭蕉も悩みに悩み。弟子たちの力添えもあって句形がまとまったようだ。
 「奥の細道旅立参百年記念碑」の左側に切株があり芭蕉の句が描かれていた。(右画像)・・・・句碑③として見做そう。「さまざまな ことおもいだす 桜かな」(さまざまな ことおもいだす さくらかな)(笈の小文)。貞享5年/元禄元年の作。ネット検索した数年前のブログ記事には御神木がシッカリと写っていた。しかし、無くなった経緯は調べてみたが解らない。
  【芭蕉記念館分館史跡展望庭園】
 
 小名木川が隅田川に流れ込む右岸先端の一画にある。閉館ではないのに、何故か分館のドアは閉まっていた。一旦戻ってから階段を登り展望庭園に上がった。→芭蕉像に関する説明書
 「史跡展望庭園」にある展示パネル
「深川芭蕉庵」 「俳人百家撰」 「芭蕉翁略伝」
「芭蕉翁絵詞伝」 「深川八貧図」 「俳諧悟影法師」
「埋木の花」 「芭蕉文集」 「芭蕉庵再興集」
【清洲橋】「史跡展望庭園」からの眺めが最高に美しいと思う。
【史跡展望庭園にある句碑】  
 この句碑は平成24年3月に建立された真新しいもの、現場で初めて知った。見逃す寸前だった。  
 
 句碑④「川上と この川下や 月の友」(かわかみと このかわしもや つきのとも)/(続猿蓑)、元禄6年の作。隅田川の「史跡展望庭園」の前辺りに舟を出し川面に揺れる月を眺めて詠んだのであろう。
  【隅田川テラス】小名木川より川上
   「大川端芭蕉句選」は幾つあるのか、その設置区間は・・・・。
 見落としてはならないと、彼方に見える「新大橋」の先まで探索してしまった。
 
 この辺りで左足の脛と脹脛に激痛が走った。この冬、炬燵を出してからは終日「炬燵の番人」に専念し運動不足が祟り脚力減退も自覚域にずっぽり浸かってしまった。東京見物は地下鉄・地下道の昇り降りというハードな急坂があったのだ。事前の準備項目に「体力作り」が抜けていた。「此の秋は 何で年よる 雲の鳥」が脳裏を走る。
【大川端芭蕉句選】「隅田川テラス」にある芭蕉句
 江戸時代に入ると「吾妻橋」周辺より下流を「大川」(おおかわ)と呼ばれるようになり、また、大川左岸、特に吾妻橋周辺から佃周辺までを「大川端」(おおかわばた)という。全部で9つあるというが・・・・見落としは?
 「芭蕉野分して 盥に雨を 聞夜哉」(ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな)(茅舎の感)
 「あられきくや この身はもとの ふる柏」(あられきくや このみはもとの ふるがしわ)(続深川集)

 「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」(めいげつや いけをめぐりて よもすがら)(あつめ句)
 「花の雲 鐘は上野か 浅草歟」(はなのくも かねはうえのか あさくさか)(続虚栗)
 「芭蕉葉を 柱にかけん 庵の月」(ばしょうはを はしらにかけん いおのつき)(蕉翁文集)
 「名月や 門に指くる 潮頭」(めいげつや かどにさしくる しおがしら)(三日月日記)
 「郭公 声横たふや 水の上」(ほととぎす こえやよことう みずのうえ)(宮崎荊口宛書簡)
 「みな出て 橋をいたゞく 霜路哉」(みないでて はしをいただく しもじかな)(泊船集書入)
ネットで調べると、見落とした句は萬年橋近く(見落とす訳だ・・・・目を奪ったのは「清洲橋」だ)
 「しばの戸に ちゃをこの葉かく あらし哉」(しばのとに ちゃをこのはかく あらしかな)(柴の戸)
  【芭蕉記念館】隅田川テラス裏口
 
 「芭蕉記念館」の裏口から「大川端」に上がったところに「奥の細道」に関わるパネルが並んでいた。塗装が薄化して汚らしく見えるだけだった。一通り写真に撮ったが見るに堪えない。裏口から入館すると芭蕉庵を模した祠が築山の上にあった。
【芭蕉記念館】正面と築山  
 道路を挟んで「芭蕉記念館」を撮影し、玄関前から庭に設けられている築山を撮影した。
 庭園にある3句碑を撮影してから館内の資料を拝見した。
 
 
 痛み出した足を癒すために館内見学(2階・3階の昇り降り・・・・逆効果か?)に時間をかけた。この時点で、第2部の「千住」は主要箇所に絞り、第3部の「浅草寺」は中止にしようと決めた。芭蕉俳句の書籍、一般書店では置かない・・・・あれば買おうと思ったが。(甘い!
  【築山の句碑】
 
 
 句碑は芭蕉庵(祠)の右奥⑤と左手前⑥に句碑がある。句碑⑤「川上と この川下や 月の友」(かわかみと このかわしもや つきのとも)/(続猿蓑)、句碑⑥「ふる池や 蛙飛こむ 水の音」(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)/(蛙合)である。
【玄関前の句碑】  
 句碑⑦「草の戸も 住み替る代ぞ ひなの家(くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ)/(おくのほそ道/序)、元禄2年の作。  
 
 第1部「深川界隈」の散策を終えた(AM 11:58)。予定時刻を20分回る。これから森下(都営新宿線)から岩本町乗換で秋葉原(東京メトロ日比谷線)経由南千住に向かう。一旦岩本町駅で改札を出て秋葉原駅へ、足が痛みとうとう吊ってしまった。この時は地下鉄の階段が鬼に見えた。
 第2部は「千住矢立初めの地」、南千住から北千住まで、痛む足を引きずり1理強・・・・気分爽快とは?
  【素戔雄神社】荒川区南千住
   第1部で歩いた距離は約5km、地下鉄の乗換等を含めると1里半は歩いているであろう。
 すでに何度も足が吊っている。芭蕉もそうであっただろう。
 
 平成7年に復刻された句碑。これを契機に「奥の細道矢立初め全国俳句大会」が毎年開催されているようだ。
【素戔雄神社】矢立ち初めの句  
 
 句碑⑧「行春や 鳥啼魚の 目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)/(おくのほそ道)、元禄2年3月27日千住旅立ち。「草の戸も・・・・」に次いで、この句も「未知草初め」のハイライトだ。(碑文)→「千寿といふ所より・・・・なみだをそそぐ「行く春や・・・・」と刻まれている。(説明書で碑文は難しくて読めなかった。)
  【千住大橋】足立区千住
   43歳で脱サラするまでお世話になった会社、就職したばかりはセールスエンジニアとして関東のテレビメーカーを担当していた。
 首都高を入谷で降り、この橋を何度も通った記憶がある。
 
 2月の仙台出張も東京経由なので、その時に「草加宿」(札場河岸公園)まで足を伸ばしてみよう。草加駅から徒歩1,200mという。それまでに散歩で足腰を鍛えておかなきゃね。妻と決めた今年の目標の一つに「月に2回、里山歩きをしよう」がある。寒い1-2月はどうしようかな・・・・。
【大橋公園】矢立初の碑  
 「芭蕉庵」から舟で隅田川を遡り「大橋北詰」で上陸、弟子達はここで見送る。
 彼らは、ここまでの足は・・・・細かいことに気になる性格なので!
 
 
 文学碑⑨「行春や 鳥啼魚の 目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)/(おくのほそ道)、元禄2年3月27日千住旅立ち。(縦長の文学碑
  【千住大橋】橋詰テラス壁画
   与謝蕪村画「奥の細道旅立ち」の壁画や歌川広重画「千住の大橋」等が壁画として描かれていた。
 
 橋詰テラスには大橋公園の奥から降りられる。ところで「隅田川」は「千住大橋」の上流8km(直線距離)、北区の「新岩淵水門」で「荒川」から分岐して東京湾に流れ込む23km余りの一級河川です。
【千住宿歴史プチテラス】芭蕉像  
 旧陸羽街道(旧日光道中)千住宿入口(足立市場前)に「千住宿歴史プチテラス」があり「芭蕉像」(矢立初め)が「奥の細道」の行く手を見詰めている。  
 
 与謝蕪村(よさ ぶそん)、江戸時代中期(1716-1784)の俳人・画家。「奥の細道」や「野ざらし紀行」等、芭蕉に関わる画や蕪村の句碑も随所で見掛てきた。
  【千住宿歴史プチテラス】句碑
 
 句碑⑩「鮎の子の しら魚送る 別哉」(あゆのこの しらうおおくる わかれかな)/(続猿蓑)、元禄2年「奥の細道」旅中、千住もしくはその道中での作。今回の目的、第3番目の句碑だ。句碑は芭蕉像から200mほど千住宿通りを入ったところにある。句碑の反対側に千住宿に関する説明板があった。「やっちゃ場追想」「千住宿」。ところで、「やっちゃ場」とは、「青果市場」のこと、語源はセリの掛け声の「ヤッチャー」。「足立市場」は、その頃からの流れなのかな・・・・。
【千住神社】  
 句碑⑪「ものいへは 唇さむし 秋の風」(ものいえば くちびるさむし あきのつき)/(芭蕉庵小文庫)、一応元禄4年の作とされている。  
 
 この句碑はロケーション的に正面から撮影出来なく斜め上からの撮影になった。PM 13:40 足の痛みが最悪状態になってきた。国道4号沿いで「びっくりドンキー」の看板を見つけた。遅くなったが昼食にありつけホッとした。撮影画像を見ながら十分に休憩をとった。
  【千住氷川神社】
   足の痛みが酷かったので、先の「千住神社」と「千住氷川神社」は省略しても良いと思った。
 しかし「安養院」には行きたかった。その通り道なので予定通り決行した。
 
 句碑⑫「春もやゝ 景色とゝのふ 月と梅(はるもやや けしきととのう つきとうめ)/(続猿蓑)、元禄6年春の作。先の「ものいえは・・・・」と「春もやゝ・・・・」の句碑は3~4ヶ所で撮影していると記憶する。全国で商店街が衰退する中、千住宿商店街は「奥の細道」は旗印に反映しているようだ。
【安養院】  
 千住宿商店街の中にある「千住氷川神社」で方角感覚が狂い地図を持ってはいるものの迷い人になってしまった。  
 
 商店街の一画にある郵便局で現在地を確認するも、近かったことで「油断」し再び迷ってしまった。痛む足を引きずり如何にか辿り着いた。
  【安養院】芭蕉句碑
 
 句碑⑬「行春や 鳥啼魚の 目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)/(おくのほそ道)、元禄2年3月27日千住旅立ち。句碑の右上に碑文あり→(拡大画像)第2部終了、PM 14:40。
 是より第3部「浅草寺」(台東区)
 浅草「浅草寺」に行った記憶はあるも何歳の頃は全く分からない。「雷門」の前に立ったのは PM 15:30 、「仲見世」の混雑は二年参り並みだ。少なくみても8~9割が外国人観光客。6枚目の写真は「新奥山」から撮った「五重塔」「スカイツリー」「三匠句碑」のコラボで気に入っている。
  【浅草寺】弁天堂芭蕉句碑
 
 句碑⑭「くわんをんの いらか見やりつ 花の雲」(かんのんの いらかみやりつ はなのくも)/(末若葉)、貞享3年、深川の芭蕉庵で病に伏せていたときの作。この頃は、浅草の観音様の屋根が見えたようだ。(説明板
【浅草寺】新奥山「三匠句碑」  
 
 句碑⑮「花の雲 鐘は上野か 浅草か」(はなのくも かねはうえのか あさくさか)/(続虚栗)、貞享4年の作。「三匠句碑」、芭蕉は中央、右側に宗因の「ながむとて 花にもいたし 頸の骨」、左側に其角の「ゆく水や 何にとどまる のりの味」
 
【東京スカイツリー】言ってみれば“オプショナルツアー”
 
 
 浅草からの「東京スカイツリー」の撮影も予定していた。「浅草寺」の「弁天堂」脇から「隅田川」に向かう。「隅田公園」越えに撮影(大画像)する。隅田川の先に見える首都高6号向島線は出張時の高速バスの通り道でライトアップされたスカイツリーを車窓から眺めている。小画像上は「吾妻橋」から撮影、小画像下は「浅草ハレテラス屋上」(浅草駅)から撮影。PM 17:00 東京駅に向かう。
 ショッピングを済ませ、喉の渇きを癒すため生ビールをジョッキ飲み、夕食も済ませ満腹になった。夜行バス発車時刻(23:40)を待つだけ・・・・あぁ、眠い!



仙台まで・・・・爆睡



実は・・・・第4部「松島」もあるのです



 高速夜行バスの仙台駅前着は、翌未明 AM 4:57 です。仙台西道路を出たところで時間調整停車、駅前にはジャスト予定通りの着です。まだ痛む足をかばいながら仙石線「あおば通り駅」に向かう。始発の AM 5:17 に乗り「松島海岸駅」に AM 5:52 に着いた。
 
【雄島】松島町  
 「雄島」前の駐車場に公衆電話ボックスがある。
 その中で30分ほど待つも依然として辺りは暗闇で足元も見えない。
 
 
 松島海岸駅発 AM 7:32 に乗車しないと顧問先会議に間に合わない。補助光のマンフロットLEDライトを点灯し「雄島」に渡る。津波被害で復旧工事中、フェンスを乗り越え遊歩道を探す。石碑や句碑が数多くあるのでライトで照らすも暗闇なので特定出来ない。
  【雄島】芭蕉と曾良の句碑
 
 小雨が降ってきた。やっとの思いで句碑を探し出す。句碑⑯「朝よさを 誰まつしまぞ 片心」(あさよさを たがまつしまぞ かたごころ)/(桃舐集)、元禄元年、「奥の細道」計画跡の作。句碑⑰「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」(まつしまや つるにみをかれ ほととぎす)(おくのほそ道)、元禄2年5月9-10日、「奥の細道」旅中、松島での曾良の作。この句碑も今回の目的の一つになっている。
 仙台の日の出時刻は AM 6:51 、「雄島」を後にしたのは AM 7:10 。露出不足で真面な写真が撮れていなく、後ろ髪を引かれる思いで今回の「旅の未知草」を終える。