旅の未知草 ; 芭蕉句碑がとりもつ邂逅 |
2015.05.17(日) 晴 |
昨年11月に計画するも「大荒れ」の予報で急遽変更した。今回も「雨」との予報で往路15日(金)を復路に前日変更、前泊の仙台をキャンセルし後泊を胎内の中条グランドホテルに、天気に見放された「旅の未知草」だが。 | ||
【林徳寺】新潟市 | ||
「奥の細道」旅中、「林徳寺」に立ち寄った際の作と伝承。文学史的には元禄7年6月の作とされる。 句碑「稲妻や 顔の處か 芒の穂」(いなづまや かおのところが すすきのほ)、句碑①左が旧句碑、句碑②右が新句碑。 |
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【合祀船江神社】新潟市 | ||
商店街のアーケードの一画にある「合祀船江神社」(神明宮)、車で進入したら後ずさりして戻る。 句碑③「海に降る 雨や恋しき うき身宿」(うみにふる あめやこいしき うきみやど)、説明文。 |
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【護國神社芭蕉堂】新潟市 | ||
広大な「護國神社」の一画にある「芭蕉堂」を捜すも分からず。神主さんに教えられ最も離れた場所へ。 句碑「海に降る 雨や恋しき 浮身宿」(うみにふる あめやこいしき 浮身宿)、句碑④/句碑⑤/説明文。 |
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句碑③④⑤「海に降る 雨や恋しき 浮身宿」は、元禄2年、北越路旅中の作との伝承されるも「存疑の部」として扱われている。時期的には「奥の細道」旅中となるが・・・・。 |
【佐潟公園】新潟市 | ||
「佐潟公園」は、大きさや形は異なるが芭蕉の時代にもあった「湧水湖」で、現在は「ラムサール条約」(水鳥生息地)で指定されている保護湿地の一つだ。 | ||
句碑⑥「あかあかと ひはつれなくも 秋の風」(あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)、「奥の細道」旅中、「途中吟」(金沢)とされているが・・・・当地での作という異説もある。(説明文) |
【北国街道赤塚】新潟市 | ||
「北国街道」の「松野尾宿」外れ、県道2号線の信号横に句碑がある。 「佐潟公園」の句碑同様、今回の「碑撮り旅」でナビ設定出来なかった場所だ。(グーグル・ストリートビューではバッチリ特定出来た) |
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句碑⑦「すゝしさや すくに野松の 枝のなり」(すずしさや すぐにのまつの えだのなり)、元禄7年5月、伊賀上野の雪芝亭で詠まれた句。 |
【宝光院】弥彦村 | ||
「弥彦神社」に隣接する「宝光院」の歴史は古く、1196年源頼朝の発願により「龍池寺」として建立。 弥彦神社の別当「神宮寺」の繁栄に伴い衰退し、末寺である「宝光院」のみを残し廃寺。今日に至る。 |
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句碑⑧「荒海や 佐渡によこたふ 天河」(あらうみや さどによこたう あまのがわ)、「奥の細道」旅中、越後路(元禄2年6月25日-7月12日)での作。(説明文) | ||
昨夜のうちに胎内市に到着、芭蕉と同じく乙村(中条町→胎内市)で宿泊。予定より50分早め5時10分にチェックアウト、ほぼ「奥の細道」と同じコースで市振まで走る。「宝光院」を後にしたのは8時半・・・・順調だ。この分だと市振海岸でのヒスイ探しの時間がとれる。 |
【西生寺】長岡市 | ||
即身仏は全国に約24体が祀られており、越後屈指の古刹「西生寺」は日本最古の即身仏「弘智法印即身仏」(約640年前)で知られる。 | ||
「西生寺展望台」(日本海の鎌倉と呼ばれる)からは「佐渡島」や「寺泊港」そして「妙高山」や「能登半島むまで眺められる「新潟県景勝100選」第8位の眺望。あいにく霞が深く「眼下の寺泊港」しか見えませんでした。 |
【法福寺祖師堂】長岡市 | ||
「法福寺」の飛地境内に「祖師堂」があり、道路を挟んだ向かいに「日蓮聖人獅子吼」がある。その一隅に芭蕉句碑がある。句面は道路側なので石塀の隙間から広角レンズで撮影した。句碑⑩「うたがふな 潮の花も 浦の春」(うたがうな うしおのはなも うらのはる)、元禄元年の作。 |
「良寛堂」の中にある歌碑「いにしえに・・・・」は、書家にとって拓本を取りたい最高級の歌碑なのか拓本の痕跡が痛々しく残っている。(お堂に入れて正解!) |
【良寛記念館】出雲崎町 | ||
「良寛記念館」と「良寛と夕日の丘公園」、後者は日本海(佐渡ヶ島)の眺望が素晴らしい。 青空が広がる晴天なるも、霞がかかり佐渡ヶ島の島影すら確認出来なかった。 |
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「芭蕉」より「良寛」という人のために「良寛の里」・・・・生まれ育った「出雲崎」、越後に帰り仮住まいした「寺泊」、安住期間の長かった「分水」、父が生まれ弟と親交を深めた「与板」、貞心尼との出逢いと終焉の地「和島」。「良寛たずね道」を歩まれたら如何ですか・・・・私は、今回は遠慮させて頂きました。 |
【芭蕉園】出雲崎町 | ||
「芭蕉園」は、芭蕉と曽良が泊まった旅人宿「大崎屋」の真向かいに造られている。文学碑の句碑⑪「荒海や 佐渡によこたふ 天河」(あらうみや さどによこたう あまのがわ)の拡大部、その説明文、「芭蕉と出雲崎」の拡大画像をご覧ください。 |
【妙福寺】出雲崎町 | ||
「妙福寺」には狭い小路を抜けた先の石段を登る。句碑⑫「荒海や 佐渡によこたふ 天の川」(あらうみや さどによこたう あまのがわ)。句面撮影に広角レンズが再び力量発揮した。(説明文) |
【妻入り会館と出雲崎宿】出雲崎町 | ||
出雲崎宿に見られる「妻入りの木造家屋」が約3.6kmに渡って立ち並ぶ情緒ある街並み。後世に伝える中心的役割を担う「妻入り会館」、小画像の上は「出雲崎宿」の街並み、下は「妙福寺」から見下ろした街並み。 |
妻入りとは屋根の形が山折りの二面構成の町家で、屋根の端の部分(妻)を街道側に向け、正面として入口(玄関)がある造りの家を「妻入りの町家」と呼び、出雲崎の海岸地区の街道に面した町家の約8割がそうなっている。 |
【旅館“玉屋”】糸魚川市 | ||
芭蕉の「汐路の鐘の句」、「曙や・・・・」は元禄2年7月11日、能生の「玉や五郎兵衛」(玉屋)に泊まった芭蕉は、名鐘「汐路の鐘」のことを聞き詠んだ句といわれている。 | ||
「汐路の鐘」とは、源義経主従が山奥に逃れる途次に漁村「能生浦」に宿った。武運長久を能生山太平寺に祈って常陸坊の名を刻んだ楚鐘を寄贈したといわれる。その後、殘銅をもって鋳返したという鐘が「白山神社」に残っている。 |
【室川医院】糸魚川市 | ||
「旅館玉屋」の近くにある「室川医院」の玄関先(小路奥右側)に嬉しい句碑がある。句碑⑭「小鯛さす 柳すゝしや 海士かつま」(こだいさす やなぎすずしや あまがつま)/(曾良書留)、元禄2年7月12日、「奥の細道」旅中、越後西頸城郡の浜辺での嘱目吟。 |
【西蓮寺】糸魚川市 | ||
「山遠水長の碑」に5つの句が刻まれている。その中央が芭蕉の句というが風化して認識出来ない。句碑⑯「あら海や 佐渡に横たふ 天の河」(あらうみや さどによこたう あまのがわ)。 |
【長円寺】糸魚川市 | ||
今回の「碑撮り旅」のクライマックス。16時着、西日の逆光で句碑刻面の文字が写らない。句碑⑰「一つ家に 遊女もねたり 萩と月」(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)、元禄2年7月12日、「奥の細道」旅中「市振の宿」にて詠んだ句。(説明文) |
【海道の松】糸魚川市 | ||
「武隈の松」「末の松山」等を見て廻った。「海道の松」は「天下の険」の通行において「覚悟と安堵」の象徴的存在であったようだ。写真の「海道の松」を眺める旅人は「天下の険」を抜け安堵の気持ちで手を合わせたことであろう。(「海道の松」説明文) |
【桔梗屋跡】糸魚川市 | ||
「市振」で芭蕉と曽良が泊まった「一家に・・・・」の「桔梗屋」、今はその面影は全くない。 「奥の細道」の中で唯一ロマンチックな名句が詠まれた宿、それなりに残して欲しいものだ。 |
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「桔梗屋」は、ちょうど100年前に焼失したようだ。日本海沿岸部は風が強く一旦火の手があがると大火に至るようだ。 |
【市振宿の史跡・名所】糸魚川市 | ||||
弘法の井戸 | 市振関所跡 | 市振海岸 | ||
【親不知】糸魚川市 | ||
天下の険、「親不知」は親不知駅から市振駅の間、「子不知」は親不知駅から青海駅の間。 「親不知コミュニティロード」入口に「天下の険」を抜ける芭蕉と曽良のオブジェがあった。 |
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【親不知コミュニティロード】糸魚川市 | ||||
「親不知 雪は海から天へふる」郷人 | W.ウェストン像 | 展望台 | ||
「郷人」の句のごとく、70m余りの絶壁に北風があたれば雪は舞い上がるはずだ。 |
「親不知コミュニティロード」の展望台から眺める北方向の断崖を抜ける四世代の陸道。 第一世代は波打ち際を抜ける天下の険、第二世代は親不知コミュニティロード、第三世代が国道8号線、第四世代は北陸自動車道。 |
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「展望台」の先にむき出しの岩肌があり「親不知」で知られる「矢如砥如」と刻まれている。あれれ・・・・右から左に読むんだっけ「如砥如矢」(とのごとく やのごとし)だ。 |
【親不知記念広場(愛の母子像)】糸魚川市 | ||
「親不知の絶壁」のベストビューポイントだ。小画像の上は夕日を避けての撮影、下は夕日をフレームに入れての撮影。 |
糸魚川から姫川沿いに白馬経由で帰路に着く直前、国道8号の路肩に停車し日本海に沈む夕日を撮影(絞り11、シャッター速度1/640、ISO-200)した。 |
天気予報を信じ、直前に往路(15日)から復路(17日)に変更しての「旅の未知草」(1,038-820=218km)は、天気に恵まれ楽しく無事に21時半過ぎに帰宅した。「せわしくも 奥の細道 碑撮り旅」は、「深川」から「市振」まで完全走破した。 |
「せわしくも 奥の細道 碑撮り旅」(奥の細道)は単なる「旅の未知草」(紀行文)ではない。「碑撮り旅」(古の歌枕を巡る旅)の体裁を借りて、人の営みや情け、邂逅と別離・・・・。まさしく「奥の細道」の魅力を感じた「旅の未知草」になりました。「糸魚川市田屋のお婆ちゃん」とのお話・・・・生涯の財産になりました。 |