芭蕉句碑;福島撮り残し紀行 2016年3月18日(金)晴 |
栃山不動尊;福島県郡山市 | ||
芭蕉句碑04、「さゝら蟹あし這のほる清水かな」(さざれがに あしはいのぼる しみずかな)、貞享4年夏の作(続虚栗)。 |
田村神社;福島県郡山市 | ||
芭蕉句碑05、「風流のはじめや奥の田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、元禄2年4月22~29日、「奥の細道」旅中「須賀川」での作。芭蕉・曽良は29日に田村神社(大元明王/明治15年に改名)を参詣している。 |
天性寺;福島県郡山市 | ||
芭蕉句碑06、「まゆはきを面影にして紅の花」(まゆはきを おもかげにして べにのはな)、元禄2年5月17~27日、「奥の細道」旅中「尾花沢」での作。旧奥羽街道の笹川宿(郡山)からさほど離れていない。芭蕉・曽良は付近を通過していたであろう。 |
麓山神社;福島県郡山市 | ||
芭蕉句碑07、「雲折々人をやすむる月見かな」(くもおりおり ひとをやすめる つきみかな)、貞享2年の作。(あつめ句)。麓山神社がある一帯は、旧二本松藩主丹羽長祥公の馬場であった。老松が弁天池に映る日本庭園は、安積開拓の歴史を偲ぶ「麓山の滝」とともに市民の憩いの場として「麓山公園」になっている。 |
大慈寺;福島県郡山市 | ||
芭蕉句碑08、「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)、元禄2年5月27日、「奥の細道」旅中「立石寺」での作。旧奥羽街道の郡山宿(郡山)からさほど離れていない。芭蕉・曽良は付近を通過していたであろう。 |
三島神社;福島県郡山市 | ||
三島神社は、旧奥羽街道の「郡山宿-福原宿」(郡山)の中間地点の西外れに位置している。芭蕉・曽良が立ち寄っているかは別に、付近を通過している。 | ||
芭蕉句碑09、「風流のはしめや奥の田植唄」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、元禄2年4月22~29日、「奥の細道」旅中「須賀川」での作。ここまで、郡山市街地の狭い道を一方通行を避け4ヶ所回った。 |
安積山公園;福島県郡山市 | ||
芭蕉文学碑11、「等躬が宅を出て五里計、・・・・」(おくのほそ道)文学碑。歌碑等で震災で倒れたのは、ロープ張りでそのままになっていた。句碑や文学碑の刻字部を磨き加工している物を多く見掛ける。撮影は別にしても、読むことすら出来ない。(目的が理解できない) |
蛇の鼻遊楽園;福島県本宮市 | ||
芭蕉句碑12、「よく見れはなすな花咲く垣根かな」(よくみれば なずなはなさく かきねかな)、貞享3年の作。(続虚栗)園内は冬枯れ状態で売店等も閉っていた。入園料600円だったが、係の方に撮影目的を伝えたら無料で入園させて頂けた。 |
亀谷観音堂;福島県二本松市 | ||
亀谷観音堂(千壁尊堂)は、近くの鏡石寺(江戸時代、鏡石寺を引退した僧の隠居所)の管轄である。 | ||
芭蕉句碑13、「人も見ぬ春や鏡のうらの梅」(ひともみぬ はるやかがみの うらのうめ)、元禄5年初春の作。(続猿蓑)。 |
西光寺;福島県福島市 | ||
西光院の山門前の橋は、水原川に架かる空石積工法の名橋「めがね橋」(明治18年完成)である。 | ||
芭蕉句碑14、「花に遊ぶ虻なくらひそ友すゞめ」(はなにあそぶ あぶなくらいそ ともすずめ)、貞享4年の作(続の原)。西光寺(松川町)は、旧奥羽街道「八丁目宿」の東口、そして西方向に「浅川新町宿」と2宿ある。「奥の細道」の行程上にあると思うが、「八丁目宿」については全く触れられていない。 |
観音寺;福島県福島市 | ||
芭蕉句碑15、「手を打ては木魂に明る夏の月」(てをうてば こだまにあくる なつのつき)、元禄4年、京都嵯峨の門人去来の落柿舎で詠んだ句。(嵯峨日記)。天台宗の大きなお寺さんでした。 |
医王寺;福島県福島市 | ||
松野自得(1890-1975、群馬県館林市、曹洞宗僧侶・俳人・日本画家)の句碑が本堂庭園に入ってすぐ右手にあった。「太刀佩いて武装悲しき妻の秋」(たちはいて ぶそうかなしき つまのあき)。 |
医王寺;芭蕉句碑 | ||
芭蕉句碑19・20、「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)、元禄2年5月2日、「奥の細道」旅中「飯坂の鯖野」にある「佐藤庄司旧館跡」を尋ね、近くの古寺(菩提寺の医王寺)で墓参りをして詠んだ句。薬師堂への参道と参道脇の「瑠璃光殿」にある「芭蕉像」を館外より撮影した。 |
医王寺;義経公主従像 | ||
以前に参詣した際は、芭蕉句碑のみの撮影であった。佐藤庄司に関する撮影のために再訪した。 | ||
「あゝ義経~佐藤一族」の歌碑があり、芭蕉の句が刻まれていた。句碑21、「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり。像は左から「忠信公」「義経公」「継信公」。NHKの大河ドラマ「義経」(2005年)のロケ地になった記念像だと思う。 |
医王寺;薬師堂と佐藤墓碑 | ||
左より「薬師堂」「佐藤継信・忠信兄弟の墓碑」「佐藤基冶・乙和御膳の墓碑」。 | ||
源義経公に係る悲劇の武将佐藤兄弟、兄の継信公(奥方は若桜)・弟の忠信公(奥方は楓)、両奥方の甲冑姿が後世に伝えられる。その兄弟の父が大鳥城の基治公、母が乙和御膳ということです。 |
医王寺;乙和御膳・乙和椿 | ||
「素冶公・乙和御膳」の墓の傍らにある「乙和椿」(乙和御膳の悲しみが乗り移り、つぼみのままで花を開くことなく落ちてしまうという)。句碑は、黙翁の「咲かで落つ椿よ西の空かなし」(さかでおつ つばきよにしの そらかなし)。今回も時間の関係で飯坂温泉街の「芭蕉ゆかりの地」は省略した。そのうちに、機会をみつけて立ち寄ってみたい。 |
田村神社;宮城県白石市 | ||
興味がないということは誤解を招くことにつながる。宮城に居た頃、「斉川」というのは丸森町の奥、旗巻峠付近(斉川温泉/閉鎖)だと思っていた。 | ||
「斉川宿」にある田村神社、そこに飯坂医王寺の佐藤兄弟の妻の「甲冑堂」がある。今回の旅の未知草の二大目的の一つ、そのために医王寺も再訪した。予定では17時40分着(日没17時49分)と心配していたが、15時14分着と2時間半近くの余裕だった。 |
田村神社;甲冑堂 | ||
宮司さんにお願いして「甲冑堂」(かっちゅうどう)内部を撮影した。右上は「おくのほそ道」文学碑22「ふたりの嫁がしるし・・・・」である。甲冑姿、向かって右側が「楓」、左側が「若桜」と着衣で分かる。 |