芭蕉句碑;福島撮り残し紀行
2016年3月18日(金)晴
 仙台出張もマイカーシーズン(?)、新潟回り山形路も計画済みだが随所に残雪が予想されるので国道4号沿いの撮り残しを回ってみることにした。午前1時少し前に家を出た。早過ぎると思っていた通り矢板到着は4時半、道の駅で朝食を摂り小一時間日の出を待つ。
 今回の目的は、福島市杉妻町の「早乙女にしかた望まむ信夫摺」の句碑である。これは「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」の初案で、完全に見落としていたものだ。そして、句碑ではないが、白石市の田村神社「甲胄堂」(かっちゅうどう/甲冑とは甲/よろいと冑/かぶと)の撮影である。
   稲荷神社;栃木県矢板市
 
 芭蕉句碑01「原中や物にもつかす啼く雲雀」(はらなかや ものにもつかず なくひばり)、貞享4年の作(あつめ句)。薄暗い中、神社で句碑を確認し撮影準備をしていると付近の住宅から男性が不審(?)そうに眺めておられたので挨拶をしたら近寄って来られた。歯科医院の院長さんらしく、神社・句碑について説明して下さった。
 沢観音寺;栃木県矢板市  

 
 曽良句碑02「かさねとは八重なてしこの名なるへし」(かさねとは やえなでしこの ななるべし)、元禄2年4月2-3日、「奥の細道」旅中「玉生~黒羽」での曽良作。日出時刻の数分後に着、住職様が本堂から出て来られたのでご挨拶、目的を述べ句碑の場所を教えて頂き句碑面にLEDライトを照射し撮影した。
 「鷹内へ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ大田原ヘ二リ八丁。大田原ヨリ黒羽根へ三リト云ドモ二リ余也。翠桃宅、ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。(曽良随行日記)
 「曽良随行日記」では、「沢村」を通過したことは伺えるも、当時からあった沢観音寺に参詣したかは不詳。ただ芭蕉は「那須与一」には触れているので、与一の兄(那須満隆)が築いた沢村城址に建つ寺ゆえ立ち寄っても不思議ではない。いずれにせよ、曽良の句は情景的に最も近い場所ゆえ、句碑写真集は入れ替えたい。
 時間短縮の必要性があり、那須塩原IC→須賀川ICまで東北自動車道を利用した。高速に乗り最初のSAである那須高原SAに芭蕉句碑があるので立ち寄った。
   那須高原SA;栃木県那須町
 
 那須町には、「遊行柳」「那須温泉神社」「殺生石」で詠んだ3句碑があり、当SAでは「遊行柳」で詠んだ句碑になっている。また、文学碑では他の2句「湯をむすぶ誓も同じ石清水」「石の香や夏草赤く露あつし」が紹介されている。句碑03「田一枚植て立去る柳かな」(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)、元禄2年4月20日、「奥の細道」旅中「芦野遊行柳」での作。
 栃山不動尊;福島県郡山市  

 
 芭蕉句碑04「さゝら蟹あし這のほる清水かな」(さざれがに あしはいのぼる しみずかな)、貞享4年夏の作(続虚栗)。
   田村神社;福島県郡山市
 
 芭蕉句碑05「風流のはじめや奥の田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、元禄2年4月22~29日、「奥の細道」旅中「須賀川」での作。芭蕉・曽良は29日に田村神社(大元明王/明治15年に改名)を参詣している。
 天性寺;福島県郡山市  
 
 芭蕉句碑06「まゆはきを面影にして紅の花」(まゆはきを おもかげにして べにのはな)、元禄2年5月17~27日、「奥の細道」旅中「尾花沢」での作。旧奥羽街道の笹川宿(郡山)からさほど離れていない。芭蕉・曽良は付近を通過していたであろう。
   麓山神社;福島県郡山市
 
 芭蕉句碑07「雲折々人をやすむる月見かな」(くもおりおり ひとをやすめる つきみかな)、貞享2年の作。(あつめ句)。麓山神社がある一帯は、旧二本松藩主丹羽長祥公の馬場であった。老松が弁天池に映る日本庭園は、安積開拓の歴史を偲ぶ「麓山の滝」とともに市民の憩いの場として「麓山公園」になっている。
 大慈寺;福島県郡山市  
 
 芭蕉句碑08「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)、元禄2年5月27日、「奥の細道」旅中「立石寺」での作。旧奥羽街道の郡山宿(郡山)からさほど離れていない。芭蕉・曽良は付近を通過していたであろう。
   三島神社;福島県郡山市
   三島神社は、旧奥羽街道の「郡山宿-福原宿」(郡山)の中間地点の西外れに位置している。芭蕉・曽良が立ち寄っているかは別に、付近を通過している。
 
 芭蕉句碑09「風流のはしめや奥の田植唄」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、元禄2年4月22~29日、「奥の細道」旅中「須賀川」での作。ここまで、郡山市街地の狭い道を一方通行を避け4ヶ所回った。
 阿弥陀堂;福島県郡山市  
 旧奥羽街道は阿武隈川の左岸沿いを走っている。日和田宿の川向う(右岸)に位置し、住宅街も一気に疎ら、山里らしい雰囲気で阿弥陀堂前ではモンシロチョウが舞ったり、ウグイスも鳴いていた。  
 
 芭蕉句碑10「先づ頼む椎の木も有り夏木立」(まずたのむ しいのきもあり なつこだち)、元禄3年の作。(幻住庵記)。「幻住庵」とは、「奥の細道」の旅を終えた翌年の元禄3年3月頃から、膳所の義仲寺「無名庵」に滞在していた芭蕉が、門人の菅沼曲水の奨めで同年4月6日から7月23日までの4ヶ月間隠棲した小庵。ここで「奥の細道」に継いで「幻住庵記」を著した。
   安積山公園;福島県郡山市
 
 芭蕉文学碑11、「等躬が宅を出て五里計、・・・・」(おくのほそ道)文学碑。歌碑等で震災で倒れたのは、ロープ張りでそのままになっていた。句碑や文学碑の刻字部を磨き加工している物を多く見掛ける。撮影は別にしても、読むことすら出来ない。(目的が理解できない)
 蛇の鼻遊楽園;福島県本宮市  
 
 芭蕉句碑12「よく見れはなすな花咲く垣根かな」(よくみれば なずなはなさく かきねかな)、貞享3年の作。(続虚栗)園内は冬枯れ状態で売店等も閉っていた。入園料600円だったが、係の方に撮影目的を伝えたら無料で入園させて頂けた。
   亀谷観音堂;福島県二本松市
   亀谷観音堂(千壁尊堂)は、近くの鏡石寺(江戸時代、鏡石寺を引退した僧の隠居所)の管轄である。
 
 芭蕉句碑13「人も見ぬ春や鏡のうらの梅」(ひともみぬ はるやかがみの うらのうめ)、元禄5年初春の作。(続猿蓑)。
 西光寺;福島県福島市  
 西光院の山門前の橋は、水原川に架かる空石積工法の名橋「めがね橋」(明治18年完成)である。  
 
 芭蕉句碑14「花に遊ぶ虻なくらひそ友すゞめ」(はなにあそぶ あぶなくらいそ ともすずめ)、貞享4年の作(続の原)。西光寺(松川町)は、旧奥羽街道「八丁目宿」の東口、そして西方向に「浅川新町宿」と2宿ある。「奥の細道」の行程上にあると思うが、「八丁目宿」については全く触れられていない。
   観音寺;福島県福島市
 
 芭蕉句碑15「手を打ては木魂に明る夏の月」(てをうてば こだまにあくる なつのつき)、元禄4年、京都嵯峨の門人去来の落柿舎で詠んだ句。(嵯峨日記)。天台宗の大きなお寺さんでした。
 市立第一小隣接地;福島県福島市  
 「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」(さなえとる てもとやむかし しのぶすり)の初案。

 真蹟懐紙には
「早苗つかむ手もとや昔しのぶ摺」とあり、また曽良書留には「早乙女に仕形望まんしのぶ摺」とある。この曽良書留が初案とされ句碑になっている。
 
 芭蕉句碑16「早乙女にしかた望まむ信夫摺」(さおとめに しかたのぞまん しのぶすり)、元禄2年4月29日~5月2日、「奥の細道」旅中「安積山・信夫もじ摺り」での作。
 月の輪橋;福島県福島市

 芭蕉句碑17「早苗とる手もとやむかししのぶ摺」(さなえとる てもとやむかし しのぶすり)、元禄2年4月29日~5月2日、「奥の細道」旅中「安積山・信夫もじ摺り」での作。「月の輪橋」の上から阿武隈川の下流方向を撮影した小画像。遠くに阿武隈急行の橋梁が見える。その橋との中間、右岸堤防上に「瀬上の渡しの碑」があるという。行ってみなかったがグーグルのストリートビューで確認出来る。
 月の輪の渡し;福島県福島市  
 芭蕉文学碑18、「月の輪のわたしを越て、・・・・」(おくのほそ道)文学碑。
 月の輪台(月の輪の渡しの後方)に愛宕神社がある。団地造成前は、それなりの神社だったようだ。
 
 
 最初の計画では、この後に保原市にある2句碑の撮影に行く予定だったが、「医王寺」の撮り残しのフォローを優先させた。ちなみに、句碑は「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」(正八幡宮)と「物いへば唇寒し穐の風」(仙林寺)で、いずれ立ち寄ってみても・・・・と思う。
   医王寺;福島県福島市
 
 松野自得(1890-1975、群馬県館林市、曹洞宗僧侶・俳人・日本画家)の句碑が本堂庭園に入ってすぐ右手にあった。「太刀佩いて武装悲しき妻の秋」(たちはいて ぶそうかなしき つまのあき)。
 医王寺;芭蕉句碑
 芭蕉句碑19・20「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)、元禄2年5月2日、「奥の細道」旅中「飯坂の鯖野」にある「佐藤庄司旧館跡」を尋ね、近くの古寺(菩提寺の医王寺)で墓参りをして詠んだ句。薬師堂への参道と参道脇の「瑠璃光殿」にある「芭蕉像」を館外より撮影した。
   医王寺;義経公主従像
   以前に参詣した際は、芭蕉句碑のみの撮影であった。佐藤庄司に関する撮影のために再訪した。
 
 「あゝ義経~佐藤一族」の歌碑があり、芭蕉の句が刻まれていた。句碑21「笈も太刀も五月にかざれ紙幟」(おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり。像は左から「忠信公」「義経公」「継信公」。NHKの大河ドラマ「義経」(2005年)のロケ地になった記念像だと思う。
 医王寺;薬師堂と佐藤墓碑
 左より「薬師堂」「佐藤継信・忠信兄弟の墓碑」「佐藤基冶・乙和御膳の墓碑」。
 源義経公に係る悲劇の武将佐藤兄弟、兄の継信公(奥方は若桜)・弟の忠信公(奥方は楓)、両奥方の甲冑姿が後世に伝えられる。その兄弟の父が大鳥城の基治公、母が乙和御膳ということです。
   医王寺;乙和御膳・乙和椿
 
 「素冶公・乙和御膳」の墓の傍らにある「乙和椿」(乙和御膳の悲しみが乗り移り、つぼみのままで花を開くことなく落ちてしまうという)。句碑は、黙翁の「咲かで落つ椿よ西の空かなし」(さかでおつ つばきよにしの そらかなし)。今回も時間の関係で飯坂温泉街の「芭蕉ゆかりの地」は省略した。そのうちに、機会をみつけて立ち寄ってみたい。
 田村神社;宮城県白石市  
 興味がないということは誤解を招くことにつながる。宮城に居た頃、「斉川」というのは丸森町の奥、旗巻峠付近(斉川温泉/閉鎖)だと思っていた。  
 
 「斉川宿」にある田村神社、そこに飯坂医王寺の佐藤兄弟の妻の「甲冑堂」がある。今回の旅の未知草の二大目的の一つ、そのために医王寺も再訪した。予定では17時40分着(日没17時49分)と心配していたが、15時14分着と2時間半近くの余裕だった。
   田村神社;甲冑堂
 
 
 宮司さんにお願いして「甲冑堂」(かっちゅうどう)内部を撮影した。右上は「おくのほそ道」文学碑22「ふたりの嫁がしるし・・・・」である。甲冑姿、向かって右側が「楓」、左側が「若桜」と着衣で分かる。
 田村神社;桃隣の句碑  
 
 天野桃隣(芭蕉の縁者で蕉門、元禄9年奥の細道をなぞって「陸奥衛」を著した伊賀国の俳人)の句碑23「戦めく二人の嫁や花あやめ」(いくさめく ふたりのよめや はなあやめ)
 最終撮影を終えたのは15時36分(予定18時10分)、この分なら伊達市保原町を抜かなくても良かった。夕方には崩れるとの予報もあったが天気も上々であった。
   斉川宿;宮城県白石市
 
 
 田村神社の参詣を終え、時間的に大分余裕があるので「斉川宿」を車で流した。今回の旅の未知草は、93km(927-417×2)であった。