碑撮り旅 「奥の細道」大団円(大垣編)
 2016.07.29(金) 晴
 「孫兵衛茶屋」から高速「木之本IC-大垣西IC」を利用し、1時間強で大団円「奥の細道むすびの地」に予定時刻に2時間半の余裕で正午過ぎに着いた。海水浴シーズンということで「敦賀-色の浜」の渋滞を予想しての行程表だったが案ずることなかれであった。
【奥の細道むすびの地】岐阜県大垣市 芭蕉を出迎える木因(左) 住吉灯台(右)
 
 昨年の碑撮り旅、“大垣は雨”だった。「水門川遊歩道」を往復した時点でレンズ内が曇り「住吉灯台」は正に“霧中撮影”擬きだった。今回は、熱中症手前で「氷」の旗を見つけ茶房に飛び込む始末。
 
【大垣船町川湊】 水門川に浮く川舟 花見の舟下りが出来るようです
 
 「奥の細道むすびの地」の滞在予定は1時間、余裕時間が持てたことで3時間も留まることが出来た。
 千住;句碑39「行春や鳥啼き魚の目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)
 「ミニ奥の細道」のスタート地点は、大垣駅(東海道本線・養老線)南口から東方向に200m弱行った所にある「愛宕神社」付近。
 そこには「岐阜町道標」があり、正面に「右きそ路」「左京みち」と刻まれている。

 千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。「行春や鳥啼魚の目は泪」。是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。→碑撮り旅;第17回(2015.01.16)/浪漫紀行750話を参照
 日光;句碑40「あらたふと青葉若葉の日の光」(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)
 
 日光山の梺に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云う。→碑撮り旅;第4回(2013.10.18)/浪漫紀行695話を参照
 遊行柳;句碑41「田一枚植て立去柳かな」(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)
   清水ながるゝの柳は蘆野の里にありて田畔に残る。此所の郡守戸部某の此柳みせばやなど、折ゝにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
 
 「田一枚植て立去る柳かな」。→碑撮り旅;第2回(2013.07.19)/浪漫紀行681話を参照
 須賀川;句碑42「世の人の見付けぬ花や軒の栗」(よのひとの みつけぬはなや のきのくり)
 
 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡ひろふ太山もかくやとしづかに覚られてものに書付侍る。其詞、栗という文字は西の木と書て西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや。「世の人の見付ぬ花や軒の栗」。→碑撮り旅;第2回(2013.09.20)/浪漫紀行688話を参照
 笠島;句碑43「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」(かさじまは いづこさつきの ぬかりみち)
   鐙摺・白石の城を過、笠嶋の郡に入れば、藤中将実方の塚はいづくのほどならんと人にとへば、是より遥右に見ゆる山際の里をみのわ・笠嶋と云、道祖神の社・かた見の薄今にありと教ゆ。此比の五月雨に道いとあやしく、
 
 身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、蓑輪・笠嶋も五月雨の折にふれたりと、「笠嶋はいづこさ月のぬかり道」。→碑撮り旅;第7回(2014.04.18)/浪漫紀行723話および第34回(2016.07.16)/浪漫紀行803話を参照
 平泉;句碑44「夏艸や兵共が夢の跡」(なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
 
 →碑撮り旅;第13回(2014.10.17)/浪漫紀行745話および第23回(2015.07.17)/浪漫紀行769話を参照
 封人の家;句碑45「蚤虱馬の尿する枕もと」(のみしらみ うまのばりする まくらもと)
 
 なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼって日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。→碑撮り旅;第12回(2014.09.19)/浪漫紀行742を参照
 尾花沢;句碑46「涼しさを我宿にしてねまる也」(すずしさを わがやどにして ねまるなり)
 
 尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日々とゞめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。「涼しさを我宿にしてねまる也」→碑撮り旅;第12回(2014.09.19)/浪漫紀行742話を参照
 立石寺;句碑47「閑さや岩にしみ入蝉の声」(しずかさや いわにしみいる せみのこえ)
 
 →碑撮り旅;第11回(2014.07.18)/浪漫紀行738話を参照
 本合海;句碑48「さみだれをあつめて早し最上川」(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)
 
 ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙隙に落て仙人堂岸の臨て立。→碑撮り旅;第12回(2014.09.19)/浪漫紀行742話、第32回(2016.05.20)/浪漫紀行797話を参照
 出羽三山;句碑49「有難や雪をかほらす南谷」(ありがたや ゆきをかおらす みなみたに)
 羽黒山に登る。図司左吉と云者を尋て、別当代会覚阿闍利に謁す。南谷の別院に舎して憐愍の情こまやかにあるじせらる。→碑撮り旅;第12回(2014.09.19)/浪漫紀行742話、第33回(2016.06.17)/浪漫紀行800話を参照
 酒田;句碑50「暑き日を海に入たり最上川」(ありがたや ゆきをかおらす みなみたに)
 
 →碑撮り旅;第13回(2014.10.19)/浪漫紀行745を参照
 越後;句碑51「荒海や佐渡によこたふ天河」(あらうみや さどによこたう あまのがわ)
 鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず。→碑撮り旅;第20回(2015.05.17)/浪漫紀行759を参照
 市振;句碑52「一家に遊女も寝たり萩と月」(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)
 
 今日は親しらず子しらず・犬もどり・駒返詩など云北国一の難所を超て、つかれ侍れば、枕引よせて寝たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計と聞ゆ。→碑撮り旅;第20回(2015.05.17/浪漫紀行759話を参照
 那古;句碑53「わせの香や分入右は有磯海」(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)
 →碑撮り旅;第21回(2015.06.01)/浪漫紀行761話、第35回(2016.07.28)/浪漫紀行804話を参照
 金沢;句碑54「あかあかと日は難面も秋の風」(あかあかと ひはつれなくも あきのかぜ)
 
 →碑撮り旅;第21回(2015.06.01)/浪漫紀行761話、第35回(2016.07.28)/浪漫紀行804話を参照
 小松;句碑55「しほらしき名や小松吹萩薄」(しおらしきなや こまつふく はぎすすき)
 
 金沢
 卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。
爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有、それが旅宿を倶にす。一笑と云者は、此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬、早世したりとて、其兄追善を催すに、
 「塚も動け我泣声は秋の風」
   ある草庵にいざなはれて
 「秋凉し手毎にむけや瓜茄子」
   途中吟
 「あかあかと日は難面もあきの風」

 小松
   小松と云所にて
 「しほらしき名や小松吹萩すゝき」
 →碑撮り旅;第21回(2015.06.01)/浪漫紀行761話、第35回(2016.07.28)/浪漫紀行804話を参照
 那谷寺;句碑56「石山の石より白し秋の風」」(いしやまの いしよりしろし あきのかぜ)
 
 花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智、谷汲の二字をわかち侍りしとぞ。奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。→碑撮り旅;第21回(2015.06.01)/浪漫紀行761を参照
 加賀全昌寺;句碑57「庭掃て出ばや寺に散柳」(にわはきて いでばやでらに ちるやなぎ)
 けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。折節庭中の柳散れば、→碑撮り旅;第21回(2015.06.01)/浪漫紀行761話を参照
 敦賀;句碑58「名月や北国日和定なき」(めいげつや ほくこくびより さだめなき)
 
 →碑撮り旅;第21回(2015.06.02)/浪漫紀行762話、第35回(2016.07.28)/浪漫紀行804話を参照。今回の碑撮り旅の数日前は天気が心配だった。仮に雨でも、それはそれで「名月や北国日和定なき」と覚悟していた。
 色の浜;句碑59「さびしさやすまに勝ちたる浜の秋」(さびしさや すまにかちたる はまのあき)
 →碑撮り旅;第21回(2015.06.02)/浪漫紀行762話、第35回(2016.07.29)/浪漫紀行805話を参照
 大垣;句碑60「蛤のふたみに別行秋ぞ」(はまぐりの ふたみにわかれ ゆくあきぞ)
 
 露通も此みなとまで出むかひて、みのの国へと伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと又舟にのりて、 →碑撮り旅;第21回(2015.06.03)/浪漫紀行763話、第35回(2016.07.29)/浪漫紀行806話を参照
  【芭蕉送別連句塚】
   句61「秋の暮行先々ハ苫屋哉」(あきのくれ ゆくさきざきは とまやかな)木因、
 句
62「萩にねようか萩にねようか」(はぎにねようか はぎにねようか)芭蕉、
 句
63「霧晴ぬ暫ク岸に立給へ」(きりはれぬ しばらくきしに たちたまえ)如行、(単独句碑65
 句
64「蛤のふたみ別行秋ぞ」(はまぐりの ふたみわかれ ゆくあきぞ)芭蕉。
 「奥の細道」の旅を終え、伊勢参りに向かう際のものだ。
 「芭蕉俳句集」(中村俊定校注/岩波文庫)では、「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」(おくのほそ道)、「はまぐりの二見へわかれゆく秋ぞ」(其袋)、「蛤のふたみに別行秋ぞ」(真蹟自画賛)と記されている。
【木因白桜塚】  
 
 「谷木因」(ぼくいん)は大垣の廻船問屋の主人で「北村季吟」の入門、芭蕉とは同門の友人」。句碑66「惜むひげ剃りたり窓に夏木立」(おしむひげ そりたりまどに なつこだち)木因。
  【田三反塚】
 
 水門川遊歩道にあるが「ミニ奥の細道」とは別の句碑67「隠家や菊と月とに田三反」(かくれがや きくとつきとに たさんたん)、元禄2年9月、「奥の細道」旅中「大垣」で木因別邸に招かれての作。句碑は芭蕉の「真蹟懐紙」に基づく。手持ちの芭蕉全句集等では「かくれ家や月と菊とに田三反」(笈日記)になっている。このことはネットで検索しても分からなく、直接メールで問い合わせ学芸員の方からご丁寧な説明を頂きました。
 
【竹酔日】竹植る(たけううる)  
 
 句碑68「ふらすとも竹植る日はみのと笠」(ふらずとも たけううるひは みのとかさ)、貞享-元禄年間の作。
  【圓通寺】
 
 句碑69「こもり居て木の実草のみひろはゝや」(こもりいて きのみくさのみ ひろわばや)、元禄2年9月4日、「奥の細道」旅中「大垣藩家老戸田惣水下屋敷」に招かれた際の挨拶吟。同席した「如水」の句も刻まれている。句碑70「御影たつねん松の戸の月」(みかげたつねん まつのとのつき)如水。
【八幡神社】  
 
 句碑71「折々に伊吹をみては冬ごもり」(おりおりに いぶきをみては ふゆごもり)、元禄4年、最後の江戸下向の折、宮崎荊口次男「千川」宅にての挨拶吟。「ミニ奥の細道」(片道2.2km)のスタート地点(愛宕神社)までまで半分足らず。流れ出す汗で体の水分も大分減っているので句碑前にある「大垣の遊水」で補給する。そう冷たい水ではないが気温差もあり生気を取り戻せた。
【大垣城】

 余りの暑さで着衣まで汗だく、熱中症寸前の状態。嬉しい「氷」一文字の幟を見付け茶房に飛込む。

 一息ついたところで、60mほどの所にある「大垣城」へ・・・・事前のストリートビューでチェックしたのは反対方向からの撮影だった。

 まぁ、正面撮ったから・・・・いいっかぁーと次の「旧竹島本陣跡」へと向かった。
 「水門川遊歩道」は、大垣城の外堀(水門川)沿いに造られている。大垣城の東方向に、「木曽三川」(揖斐川・長良川・木曽川)がある。曽良は信州人だが両親・伯母・養父母が亡くなった12歳の時に伊勢国長島の住職深泉良成に引き取られた。その場所が木曽川と長良川の間ということで、両川の一文字をとり俳号「曽良」が誕生した。
【旧竹島本陣跡/大垣宿本陣跡】  
 
 句碑72「其まゝよ月もたのまじ伊吹山」(そのままよ つきもたのまじ いぶきやま)、元禄2年8月下旬、「奥の細道」旅中「大垣藩士高岡三郎」(俳号斜嶺)亭に招かれての挨拶吟。(説明
  【赤坂法泉寺】岐阜県大垣市
 
 句碑73「草臥てやとかる頃や藤の花」(くたぶれて やどかるころや ふじのはな)、貞享4年(元禄元年)の作か、明星輪寺に行く途中なので立ち寄ってみた。
【明星輪寺】岐阜県大垣市  
 
 句碑74「鳩の声身に入みわたる岩戸哉」(はとのこえ みにくみわたる いわとかな)、元禄2年8月28日、「奥の細道」の旅を終え大垣明星輪寺宝光院を参詣した祈りの句。句碑パネル(
 明星輪寺の再訪目的は、名勝「金生山岩巣公園」の撮影だ。石灰岩層の露出面が自然風化で創り出した奇石怪石の自然公園である。この山全体が石灰岩で出来ているので、多くの採掘業者が削り取り明星輪寺参道は「採掘崖縁」(参道より里から)にあり茂み一つの目隠し。「おくのほそ道の風景地」として保護をお願いしたいものだ。
今回の碑撮り旅、一泊二日、935km、充実した北陸路、奥の細道完走、・・・・いざ、写真展へGo!