旅の未知草;分水嶺周辺の掘下げ紀行
2016年9月16日(金)曇/晴
 出張は「秋雨の晴間」というお天気に恵まれた。これも「奥の細道」行脚の賜物、旅路は「上越-村上-飯豊-朝日-東根(予定は大石田)-尾花沢」という8時間ルート。この計画は「8月の旅の未知草」であった。家を0時に出て、最初の地点到着が7時25分。
みちのく風土記の丘;山形県尾花沢市
 
 和菓子屋さんの本社駐車場に、「奥の細道」(尾花沢の章)の文学碑がある。以前に撮影済みだが縦置画像が気に入らず撮り直しをしたいと思っていた。句碑01「涼しさを我宿にしてねまる也」(すずしさを わがやどにして ねまるなり)、句碑02「這出よかひやが下のひきの聲」(はいいでよ かいがやしたの ひきのこえ)、句碑03「まゆはきを俤にして紅粉の花」(まゆはきを おもかげにして べにのはな)、以上「芭蕉の尾花沢3句」。句碑04「蚕飼する人は古代の姿かな」(こがいする ひとはこだいの すがたかな)曽良、元禄2517-27日、「奥の細道」旅中「尾花沢」の章。→(句碑拡大/縦句碑拡大/横句部分拡大文学碑説明
清風歴史資料館;山形県尾花沢市
 
 予定していたのは、「みちのく風土記の丘」の次は「山刀伐峠」であるが、何故か「鈴木清風」に招かれるかのように少々道草をしてしまった。・・・・以前に立ち寄った際に忘れ物をしていたことを清風が指摘してくれたようだ。忘れ物とは→(説明)にある尾花沢での2歌仙の一つ「おきふしの」である。芭蕉の発句「すずしさを」に続くもの、清風の発句「おきふしの麻にあらはす小家かな」(おきふしの あさにあらわす こいけかな)、芭蕉の脇「狗ほえかゝるゆふだちの蓑」(いぬほえかかる ゆうだちのみの)、第三は素英「ゆく翅いくたび罠のにくからん」(ゆくつばさ いくたびわなの にくからん)、第四は曽良「石ふみかへす飛こえの月」(いしふみかえす とびこえのつき)。この句碑・文学碑はなし。そもそも、曽良旅日記に2歌仙の記録もなく、長らく「存疑」として扱われていたようだ。
 ちなみに、歌仙「すずしさを」は、芭蕉の発句「すゞしさを我やどにしてねまる也」(すずしさを わがやどにして ねまるなり)、脇は清風「つねのかやりに草の葉を焼」(つねのかやりに くさのはをやく)、第三は曽良「鹿子立をのへのし水田にかけて」(しかこたつ おのえのしみず たにかけて)、第四は素英「ゆふづきまるし二の丸の跡」(ゆうづきまるし にのまるのあと)。・・・・「芭蕉像でも撮るかぁ」という軽い気持ちが「奥深い」勉強になりました。
   関谷番所跡;山形県尾花沢市
 
 芭蕉・曽良とは逆コースでの山刀伐峠越えになった。従って、ここ「関谷番所跡」は、「山刀伐峠」で非常に怖い思いをし、里に降りて「ホッ」とした尾花沢側だ。
 山刀伐峠の両登口  

 大画像は尾花沢側、小画像は赤倉・封人の家側、狭く避け違いもままならない旧道を登った。
 
 
 「旧道」ならびに並行する「歴史の道」は綺麗に整備され、ブナの二次林で歩道も明るく(「木の下闇」の気配なし)、私一人だったが山賊(クマ)も現れる気配もなく爽快だった。「おくのほそ道」の大きな山場(転機)になった「山刀伐峠」越え、当所の計画と異なり走行順(逆コース)になった。
   山刀伐峠頂;山形県最上町
 
 文学碑は、「尿前の関」章の「高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし、雲端に土ふる心地して、篠の中踏分/\、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。」→(碑文拡大)、(説明)。今回の第1目的だったので、20分の予定を大幅に越え1時間を費やした。
 封人の家;山形県最上町  
 
 句碑05「蚤虱馬の尿する枕もと」(のみしらみ うまのばりする まくらもと)、元禄2517日、「奥の細道」旅中「尿前の関」の章。
   分水嶺;山形県最上町
 
 水脈が東西に分れ日本海と太平洋へと旅立、なんとロマンチックな話だろう。北から(奥羽山脈)流れ出した小川が堺田駅にぶつかり、右(東)に分れた水は宮城県側に下り江合川・旧北上川を経て116kmの旅をする。一方、左(西)に分れた水は山形県側に下り小国川・最上川を経て102kmの旅をする。チョッと意地悪をし故意に左右に分けたら、その運命は大きく変わる。人の運命も・・・・そんな些細なキッカケで大きく変わる。一度、その水とともに旅をしてみたいものだ。
 「宮城に入りました」とナビが告げる。「尿前の関跡」に着いたのは945分(10:10予定)。
 尿前の関;宮城県大崎市  

 「尿前の関跡」から「堺田」(封人の家)までの約8.9kmに渡り「おくのほそ道」(遊歩道)が整備されている。
 
 
   尿前の関;宮城県大崎市
 
 文学碑06「蚤虱馬の尿する枕もと」(のみしらみ うまのばりする まくらもと)、元禄2517日、「奥の細道」旅中「尿前の関」の章。本句の句碑だが、写真集には「尿前の関」と「封人の家」、いずれの句碑を乗せるべきか悩んだ。句碑としては「尿前の関」だが、発句では「封人の家」になろう。
 尿前の関;宮城県大崎市  
 
 文学碑07「蚤虱馬の尿する枕もと」(のみしらみ うまのばりする まくらもと)、元禄2517日、「奥の細道」旅中「尿前の関」の章。句面は左後ろ、前回は見落としていたので、その撮影が今回の第2目的であった。→(前面全体)(句面全体
小黒崎;宮城県大崎市
 「おくのほそ道」(尿前の関の章)に、「・・・・小黒崎・みつの小嶋を過て、・・・・」と記されている。

 宮城に居た頃より、「何で芭蕉像が・・・・」(小黒崎観光センターの庭)との思いはするも通り過ぎていた。その「小黒崎」とは、芭蕉像り後方に見える「小黒ヶ崎山」のことで、紅葉はもとより尾根に残る「姿良き松」で知られた歌枕である。

 
 芭蕉像がある小黒崎観光センターは休業状態。草むらに建つ芭蕉像から、「不易流行」の言葉が脳裏を走る。いずれ、建物が取り壊されても「芭蕉像」の一画は「大崎市」の責任で残して欲しいものだ。
 美豆の小島;宮城県大崎市  
 
 「小黒崎」ならびに「みつの小嶋」は、芭蕉が見たかった歌枕の地。現在は江合川の左岸と地続き、曽良日記では右岸と地続き、その昔の「歌枕」(平安)は江合川に浮かぶ小島であったという。駐車場にあった「説明」と「歌碑」。
 
 
 大画像は江合川を背に左岸とは反対側からの撮影、後方の山が「小黒ヶ崎山」である。小画像上は下流側からの撮影、小画像下は島の上にある祠で石碑は風化し何であるか不詳。
 天王寺追分;宮城県大崎市  
 
 「天王寺追分」・・・・芭蕉と曽良は、これより「小黒崎・みつの小嶋」に向かうも日暮れ時、引き返して岩出山で宿す。もし、そのまま向っていたら宿の主人から峠越えの変更の勧めも耳にしなかったかも・・・・そうなれば「蚤虱」の名句も「山刀伐」の峠越えもなく「おくのほそ道」も違う形になっていたかもしれません。(説明
   芭蕉一宿の地;宮城県大崎市
 
 これといったものは残っていないが芭蕉像だけ見ておこうと向かう。(説明
 野草園;宮城県仙台市
 「野草園」に「おくのほそ道」の句柱があるので「チェックイン16時」には早過ぎる(野草園13:18着)ので立ち寄ってみた。「選択基準」は、何となく「植物」が詠み込まれている句のようにも思えるが・・・・。
かさねとは八重撫子の名なるべし 田一枚植て立去るかな 卯の花をかざしに関の晴着かな
 「八重撫子」「柳」「卯の花」、「遊行柳」の句碑板は修理中とのことで外されていた。(探せず電話確認)
世の人の見付けぬ花や軒の栗 笠島はいづこ五月のぬかり道 あやめ草足に結ばん草鞋の緒
 「栗」「すすき」「あやめ」、笠島の「形見のすすき」は苦しい選択ですね。岩沼の「松」は・・・・。
まゆはきを俤にして紅粉の花 象潟や雨に西施がねぶの花 一家に遊女も寝たり萩と月
 「紅粉の花」「ねぶの花」「萩」、こんなものでしょうか・・・・。
 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 櫻より松は二木を三月越シ
 夏草や兵共がゆめの跡
 卯の花に兼房みゆる白毛かな
 わせの香や分入右は有磯海
 秋涼し手毎にむけや瓜茄子
 しほらしき名や小松吹萩すゝき
 山中や菊はたおらぬ湯の匂
 行行てたふれ伏とも萩の原
 庭掃て出ばや寺に散柳

 「形見のすすき」を基準に列挙してみました。きっと「植物」以外にも選択肢があったのでしょうね。
波の間や小貝にまじる萩の塵
 「萩」、だいぶ前から「板看板」のようですが・・・・「最初から」それとも「修理中」(予算不足)
 秋雨の晴れ間をぬっての「旅の未知草」、それなりの収穫もありました。帰路、西那須野辺りから「秋の虫」が乗り込んできたのか「得体の知れない異音」が・・・・疲れからきた「耳鳴り」でなければ良いのですが。「未知草」は187km(総走行距離1,037km-復路425km×2)でした。