旅の未知草;芭蕉句碑と御斎所街道
2016年11月18日(金)晴
 
 車での出張も今回まで、次は来春、早くても3月になろう。今回は、数日前に冬タイヤを新しいものに履き替えた。さて、旅の未知草「芭蕉句碑」も終盤になり、今回は国道6号を「水戸からいわき」まで北上し、40数年ぶりに走る「御斎所街道」(難所続いた古道の名残)のコースを計画。懐かしい「旅の未知草」で、今迄とは一味違う「ときめき感」あるドライブ。今回も・・・・旅の前後が雨、しかし寺社参詣のご利益もあって「晴の一日」(598km)を無事走り終えることが出来た。
   善重寺;茨城県水戸市
 
 日の出時刻「6:19」に合せ家を「1:30」に出た。現着「5:50」と予定より40分早く着いた。山門前の駐車場で妻が用意してくれた朝食を摂り夜明けを待った。句碑01「芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉」(ばしょうのわきして たらいにあめを きくよかな)、「8・7・5」と、かなりの字余り句だが、延宝9年秋、38歳時の作で「初期の秀句の一つ」とされている。「いわれ」と「読み方」。
 大井神社;茨城県水戸市  
 
 鳥居を潜り石段を一つ上がって右手方向に続く小路がある。その行き止まりに「龍光院跡」があり芭蕉句碑がある。句碑02「古池や蛙飛び込む水の音」(ふるいけや かわずとびこむ みずのおと)、貞享3年作。芭蕉作品中最も人口に膾炙(かいしゃ)した俳句中の俳句。しかし、評価としては「秀句」から「駄作」までさまざまである。
 この後、今年の7月にオープンした、道の駅「ひたちおおた“黄門の郷”」(常陸太田市)に立ち寄り小休憩をした。「黄門の郷」は、水戸黄門こと徳川光圀が隠居後に住んでいた「西山荘」が同市内にあることから名付けられた。
 通勤・通学で混み合う細い道、「高齢者の突っ込み事故」のニュースが脳裏を横切る。朝日が眩しく視界が不鮮明、「常陸太田駅」(水郡線上菅谷駅からの常陸太田支線で終着駅)で下車した学生の列が道を更に狭め「徐行運転」で通り抜けた。「碑撮り旅」も41回になると時間読みが正確で、梅照院の到着/出発時刻は「7:50/8:00」、1分のズレも無い。
 
 梅照院;茨城県常陸太田市
 
 句碑
03「冬籠りまた寄りそはんこの柱」(ふゆごもり またよりそわん このはしら)、元禄元年冬の作。
 
 お寺さんのチャイムを鳴らすも応答がなく、寺の周辺に句碑はなく、隣り高台の墓地に上がり一番離れた場所で見つけた。新しくする前は、そちらに本堂があったのだろうか。
 若宮八幡宮;茨城県常陸太田市  
 
 若宮八幡宮の境内はケヤキが多く綺麗に紅葉していた。句碑は、本殿右手にある駐車場にある。ここは、「舞鶴城二の丸」の跡地とのこと。
 
 句碑04「子規招久可麦能武ら尾花/郭公招くか麦のむら尾花」(ほととぎす まねくかむぎの むらおばな)、延宝9年(天和元年)の作。
 「玉簾寺」(ぎょくれんじ)ならびに「玉簾の滝」は「観光見学不可」との情報は事前調査で知っていた。グーグルのストリートビューで一般道路からでも何とか撮影出来そうなので立ち寄り先に加えた。
 玉簾寺;茨城県日立市  
 
 句碑05「松風の於知葉可水能寿々之/松風の落葉か水の音涼し」(まつかぜの おちばかみずの おとすずし)、貞享元年から元禄7年の間に詠まれた画讃句。「玉簾寺と滝」は「徳川光圀」ゆかり・・・・観光見学不可(疑問を抱かざるを得ない)とのことで、句碑も「それなり」の撮影に留めた。個人資産かも知れないが、歴史的遺産と評するなら「公共性」もあるので公人としての融通性を持って頂きたいものだ。
 
 大津漁港;茨城県北茨城市
 
 
 五浦全体を見たく、国道6号から大津漁港へと道を逸れた。
 五浦岬公園と岡倉天心;茨城県北茨城市
 
 
 
 岡倉天心が建てた「六角堂」は、中国・インド・日本といったアジアの伝統思想を一つの建物で表現したもの。東日本大震災の津波で流失するも、一年後に創建当初の姿で再建された。
 駐車場に戻る途中、展望台から眼下に見えた建物(日本美術院研究所)に立ち寄ってみた。
 「五浦岬公園」から「旧天心邸・六角堂」へと車を移動させた。入場料300円なるも、あとわずかで70歳と言うと250円になった。入館料を払った建物が「長屋門」、写真は「旧天心邸」と「記念碑」。
 
 パンフレットの「六角堂」(茨城大学五浦美術文化研究所と言うらしい)は、海に入って撮影したようだ。
 
 滞在予定40分に対し小1時間、「忙しくも奥の細道碑撮り旅」にしては時間に捉われなくゆっくりした。それでも出発予定の5分前だ。(10:35
 平潟漁港;茨城県北茨城市
 
 
 40数年前、仕事で熊谷から小名浜に車で出張、ここ「平潟漁港」で水揚げされた魚介類を土産に買い求めた。そんな懐かしい思い出がある。「原発被害」「風評被害」で大変な思いをしておられるだろう。
 勿来の関跡;福島県いわき市
 
 
 「勿来の関跡」は、40数年前に出張途中で立ち寄ったことがある。当時の面影は全く無く、近代観光史跡になっていた。小画像は近代観光合せ建造した「詩歌の小径」にある「勿来8景句碑」なるもの。大画像は「詩歌の小径」の江戸側にある「勿来関文学歴史館」である。
 
 「勿来関文学歴史館」の脇を抜けると、関所跡に通じる「詩歌の小径」の入口があり、芭蕉の句碑がある。句碑06「風流のはしめやおくの田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、「おくのほそ道」(須賀川)元禄2年4月、「須賀川」での「等躬」への挨拶吟。
 
 「勿来の関」は句碑撮影のみ、滞在時間は10分、「詩歌の小径」出口の駐車場に車を移動。出口に「勿来の関跡」の碑がある。
 
 「詩歌の小径」の外側に「勿来の関碑」と「源義家之像」がある。駐車場との間に「弓掛の松」(源義家休息地)があった。「源義家」は河内源氏の生まれで八幡太郎と呼ばれる。奥州「前九年の役」「後三年の役」で武勇で名を馳せ、後の武家政権誕生のきっかけを作った武将。
 勿来第二中学校;福島県いわき市  
 
 駐車場から電話で要件を伝えると、教頭先生が校門を開け案内をして下さった。句碑07「風流のはしめやおくの田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、「おくのほそ道」(須賀川)元禄2年4月、「須賀川」での「等躬」への挨拶吟。
   聖樹院;福島県いわき市
 
 お留守のようで、さてどうしたものかと思案、車を止めた近くの「甲子大黒天」のお堂右手の山肌に句碑らしきものを発見した。句碑08「百年のけしきを庭の落葉かな」(ももとせの けしきをにわの おちばかな)、元禄4年10月の作。
 菩提院;福島県いわき市  
 
 住職さんがご案内して下さった。また、句面の風化が著しいのでと拓本を見せて下さった。句碑09「西行の庵もあらん花の庭」(さいぎょうの いおりもあらん はなのにわ)、貞享元年むから元禄7年の間の作。→拓本
御斎所街道(ごさいしょかいどう);難所続いた古道の名残(県道14号いわき-石川線)
 40数年前、熊谷から小名浜まで出張で通ったカーブの多い街道。白河ICで降り、この道を走り常磐ハワイアンセンターを右手に湯本を抜け小名浜へ・・・・。多くは夜間移動、たまには昼間移動もあり懐かしいあまり、遠回りをしても走ってみたかった。
   「御斎所洞門」・・・・かつて走った道は左側に残っている。旧道左手に「御斎所洞門跡地」の碑がある。旧道の左手は「鮫川渓谷」だ。
 
 「御斎所洞門」を抜け車を止めトンネルと旧道を撮影、「鮫川渓谷」は深い渓谷になっている。渓谷の先に見える三角山が「御斎所山」だ。「御斎所洞門」は景勝地として親しまれてきたが、通行の安全性が問題となり改修工事(1986年/昭和61年)に取り壊された。私が走った当時は、残っていたことになる。(記憶にない)
 次に抜けるのが「御斎所トンネル」・・・・かつて走った記憶のあるのは、この旧道だと思う。夜中に急カーブをオーバーランしそうになった「ある出来事」があった。
 「御斎所街道」はバイパス等も造られ便利になったが、「東日本大震災」や「その後の大雨」等で長期間に渡り通行止が続いたようだ。
 
 「御斎所トンネル」を抜けた所に車を止め、車止めの先へと徒歩で行って見た。左下画像のように紅葉が綺麗だった。
 
 小画像は暫く走った先のカーブ、記憶に残るカーブなので川床に降りる工事道路に車を止め撮影した。古殿町-石川町を抜け「三春町」へと、途中の「石川町」には記憶に残る場所があったが、実際に走ってみると余りにも変化が著しく「何処を走っているの・・・・」って感じだった。
 狐田稲荷神社;福島県三春町  
 
 句碑10「風流のはしめやおくの田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、「おくのほそ道」(須賀川)元禄2年4月、「須賀川」での「等躬」への挨拶吟。
   延命寺;福島県三春町
 
 句碑11「鶏頭や雁の来る時なお赤し」(けいとうや かりのくるとき なおあかし)、元禄7年の作。
 全ての予定を終えたのは、何と15時57分(予定は16時00分)。本宮市で国道4号に出て、夕食・土産(一ノ蔵)購入・給油を済ませチエックインしたのは20時過ぎ、走行距離は598km。
 追記
 11月22日の早朝、「福島沖地震」M7.4震度5弱津波警報発令・・・・「旅の未知草」で通過した付近、4日後は地球規模では「時差なし」、幾多の寺社への参詣ご利益と思えば芭蕉さんにも感謝致します。