-細道を訪ね描くや古希の旅-
落穂拾い 奥の細道“象潟・平泉”描き
(秋田県-岩手県)
2017.05.019(金) 晴
 5月中旬の「落穂拾い」(本筋から外れた事柄を拾い集める)は、4月に行った「松島」と対で語られる「象潟」(代田に映る島々)を見ずには「奥の細道“スケッチ旅”」は「大団円」にならない。そんな思いが強くコースタイムの設定時(拠点移動距離)725km というロングランに・・・・怯むことなく決行に踏み切った。
 行く手の空が暁色に染まる頃に「鼠ヶ関」を越え道の駅「あつみ」に着いた。420分・・・・日の出時刻だ。すでに 350 km近く走っているので休憩らしい休みをとった。
 
道の駅を背に沖合の方角(西)   鼠ヶ関港の方角(南)
 道の駅あつみの海岸に「磯の散策道」が造られている。薄暗い足元に「忘れ潮」が点在している。深みがある忘れ潮は分かるが数cm足らずは分からない。ペチャ・・・・わずかではあったが靴の中にまで浸み込んだ。ここは幾度となく通過・休憩をしているが「磯の散策道」の存在を知ることはなかった。
 この後、「日本海東北自動車道」(あつみ温泉IC)から「山形自動車道」経由で「日本海東北自動車道」(酒田みなとIC)まで、国道7号に降りる当りから「鳥海山」(庄内富士)を眺める。(この間50分ほど)
 【三崎峠(大師崎)】(おくのほそ道の風景地)秋田県にかほ市/山形県遊佐町
 最初の目的地は「象潟」で7時到着が予定、45分も余裕があるので「三崎峠」に立ち寄った。
 
 関連文学碑(曽良随行日記) 01、「十六日 吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。一リ、女鹿。是 より難所。馬足不通。 番所手形納。大師崎共、三崎共云。一リ半有。小砂川、御領也。庄内預リ番所也。入ニハ不入手形。塩越迄三リ。
 
 「三崎山旧街道」(奥の細道)、羽州浜街道の難所の一つとされ、参勤交代の利用もなくタブ林の中に大石を敷き詰めたもの。羽州浜街道は、「鼠ヶ関宿」(山形県鶴岡市)~「久保田宿」(秋田県秋田市)。
 
 「三崎」(観音崎・大師崎・不動崎)は、鳥海山の噴火活動で溶岩が西に下り日本海に至った場所。「大師崎」(左画像)窪みは噴火跡。
 象潟の代田(能因島周辺);秋田県にかほ市
 
秋田富士(鳥海山)右手は能因島   能因島地区の高泉寺周辺
象潟の代田に映るさかさ富士(象潟)26.2017.sum
 「代田」(田植え前に耕し水入れが終えた水田を“代田/しろた”と言う。初夏の季語)に映る「九十九島・秋田富士」(流れ山=九十九島)(鳥海山を秋田県では秋田富士と呼ぶ)を撮りたい。田植えは5月連休に殆ど終わる。
 「象潟地震」は、文化元年64日(1804.7.1022時頃に発生、規模は推定「M 7.0」、2m程隆起し「潟」は「陸地」と化した。芭蕉が訪れたのは1689年、115年も後のこと、この場所は「こんな感じ」であったはず。
 蚶満寺(参道編);秋田県にかほ市
 
 句碑02「象潟の雨や西施かねふの花」(きさかたの あめやせいしが ねぶのはな)、元禄2615-18日、「奥の細道」旅中「象潟」での作。
 
 「西施像」、説明板に芭蕉句「象潟の雨や西施かねふの花」が刻まれている。道の駅「象潟ねむの丘」の海岸にも「西施像」があり説明板に芭蕉句「象潟の雨や西施かねふの花」が刻まれている。出来れば、象潟で詠まれた他の句(おくのほそ道掲載の曽良・低耳句ぐらいは・・・・)は文学碑として建造されても良いと思う。(自治体側にもいろいろ都合があると思うが・・・・)
 
 旧参道から「駒留島」(左端)が見える。手前は“休耕地”になっている。象潟観光の名所として、地主から借り上げ年間を通じ「代田」状態にして往時が偲ばれるような計らいをしても良さそうだ。
 
 旧参道は、いつ訪ねても綺麗になっている。ここで「7:00」、境内を参詣させて頂くには早すぎる。以前は事前連絡していたので同時刻でも拝観できた。今回は無連絡なので車中で朝食を摂り、一旦「九十九島」めぐり(みさご島・絵松島・丹波崎・塩焼島・象潟/九十九島)続けようと決めた。
 象潟の代田(蚶満寺の北方角);秋田県にかほ市
 芭蕉・曽良が「かつみ、かつみ」と探し回ったように・・・・「しろた、しろた」と探し回った。何といっても、今回の第一目的が「代田撮影」なのだから仕方がない。
 
 曽良が詠んだ「おくのほそ道」掲載句、「波こえぬ契ありてやみさごの巣」の句意になっている「みさご島」。蚶満寺の「舟つなぎの石」からも眺められる。
象潟の代田や曽良のみさご島(象潟)27.2017.sum 
 「絵松島」、「秋田富士」(鳥海山)を借景にしても見劣りしない松の島が美しい。ここにも代田が残っていた。
 
 鏡のような代田に・・・・「浮く」より「映る」方が自然化も・・・・。
 
 「絵松島」、上記場所だが「秋田富士」(鳥海山)を入れて撮った。
象潟の代田や富士の流れ山(象潟)28.2017.sum
 「中七」の「の」、最初は「と」にした。意味合いは、「鳥海山から崩れ落ちてきた流れ山」、親なる「鳥海山」と子なる「流れ山」の関係を強調したく「と→の」にした。
 
 「丹波崎」、象潟全体では田植えは 90%以上が済んでいると見られる。
 雲一つ無く澄み切った青空、残雪(種蒔き爺さん)豊かな鳥海山、象潟の代田に映る松と山・・・・信州の風景に慣れ育った信州人にとって珍しいものではない。ただ一つ「流れ山に生える松」は信州人の心を鷲掴みにする。
 「忙しい碑撮り旅」から「想い廻らす画稿の旅」にスイッチ、時の経過に惜しさを感じない。「象潟郷土資料館」
の見学を予定しての2230分に家を出た。象潟の田園風景に陶酔し、資料館の見学は取り止めることに決めた。
 
 「塩焼島」、「みさご島」に戻り脇の農道を抜け蚶満寺へと戻る。「代田」の空撮・・・・「道の駅」展望台からの風景を想像し楽しみを後に残した。
 蕉風荘辺りにある「唐戸石」を撮影したく再訪すると、「奥の細道の説明板」が転倒したままになっていた。また、「唐戸石」は防波堤の外側にあるとのことだが「どの石」なのか皆目わからず
 蚶満寺(境内);秋田県にかほ市
 
 「蚶満寺」に戻る(7:45)、本堂左棟の呼鈴を押し参詣の旨を伝え拝観料を支払う。本堂を開けて頂きましたので参拝を済ませ境内見学をしました。右画像は「紅蓮尼の碑」(松島の瑞巌寺にもあった)。
 
 芭蕉句碑は「タブの木」の下にある。「三崎旧街道」を覆う「タブ林」はこの木である。立派な苔なので踏みつけないよう注意をはらって句碑撮影をした。
 句碑03「象潟の雨や西施かねふの花」(きさかたの あめやせいしが ねぶのはな)、元禄2615-18日、「奥の細道」旅中「象潟」での作。
 「象潟三句文学碑」(象潟駅)に「ゆふばれや櫻に涼む波の花」(ゆうばれや さくらにすずむ なみのはな)、元禄2615-18日、「奥の細道」旅中「象潟」での作と掲載しているのに記憶からすっかり消えていた。
 「西行法師の歌桜」 若い木で何の変哲もないが・・・・
 
 「象潟の桜は波に埋もれて花の上漕ぐ海士の釣り舟」(きさかたのさくらはなみにうもれて はなのうえこぐあまのつりぶね)、西行法師の「象潟」の章段。
象潟の流れ山にも余花もがな(象潟)29.2017.sum
 「余花」(よか;初夏の季語)、立夏前は「残花」で立夏後が「余花」、「残花」も「余花」も“桜”のこと。「もがな」の使い方に誤りはないだろうか・・・・?
 象潟駅(JR東日本羽越本線);秋田県にかほ市
芭蕉文学碑(象潟三句文学碑)(拡大) (説明)   記念切手
芭蕉文学碑 元禄2615-18日、「奥の細道」旅中「象潟」での作。
 句碑04
「きさかたの雨や西施かねぶの花」(きさかたの あめやせいしか ねぶのはな)
 句碑05「ゆふ晴や桜に涼む波の華」(ゆうばれや さくらにすずむ なみのはな)
 句碑06「腰長や鶴脛ぬれて海涼し」(こしたけや つるはぎぬれて うみすずし)
芭蕉文学碑 元禄2615-18日、「奥の細道」旅中「象潟」での作。
 句碑07
「象潟や雨に西施がねぶの花」(きさかたや あめにせいしが ねぶのはな)
 象潟三丁目汐越界隈;秋田県にかほ市
 羽州浜街道の宿駅は、北に6km程行った所に「金浦宿」がある。にかほ市の本庁舎は旧金浦町にある。芭蕉・曽良・低耳が象潟で泊まった宿、左が「向屋跡」で右が「能登屋跡」である。
 
 象潟公会堂(築昭和9年)前に芭蕉・曽良・低耳が象潟で逗留した元禄2615日~18日の旅記録の説明板、脇に「紅蓮尼生誕跡」がある。→「心月庵紅蓮尼物語
 
 「熊野神社」で祭典が、曽良が詠んだ「象潟や料理何くふ神祭」とは季節が異なるも「神祭」には違いない。
熊野神社から見える象潟橋 象潟橋(欄干橋) 船つなぎ石
 道の駅「象潟ねむの丘」;秋田県にかほ市
象潟の代田はいづこ探しけり(象潟)30.2017.sum
 3枚綴りの1枚目は「TG-4」でパノラマ撮影。2枚目は「鳥海山左手前の流れ山」。3枚目は「正面から左手の流れ山」。地図に表記されている「象潟・九十九島」は両者の間で何も見えない。
 
 道の駅「象潟ねむの丘」の海岸テラスに「西施像」が見える。右画像 Click でノントリの望遠画像に変る。判読不能だが奥の細道文学碑に芭蕉句碑08「象潟や雨に西施がねぶの花」が刻まれて・・・・いるはずだ。
 えさし藤原の郷 ;岩手県奥州市
 
 これより2枚は、「経清館」(旧豊田館)に向かう坂道から撮影した。
 「奥州藤原三代(四代)」(清衡/中尊寺→基衡/毛越寺→秀衡/毛越寺・最盛期・義経迎入→泰衡/代を継ぎすぐに鎌倉幕府の奥州征伐で滅びる)。ここ「えさし藤原の郷」(20万㎡)は1993年に開園した平安時代のテーマパーク。
藤原の郷や余花散る夢の跡(江刺)31.2017.sum
 「奥の細道」、芭蕉・曽良は「藤原の郷」まで足を伸ばしていないが・・・・愚作ながら一句詠んでみた。
 豊田館跡(藤原清衡のルーツ) ;岩手県奥州市
 「豊田館跡」(とよだのたちあと)は、「藤原清衡」の父「藤原経清」が居館として築き、平泉を築いた清衡が生まれ育った場所であると伝えられる。
 
 史跡公園として整備され、「豊田城址碑」(1774年に仙台藩儒田辺元撰が建立)には「藤原経清の居館豊田跡にして嫡男清衡生誕の地である」と記されている。(豊田館について)(豊田城址碑)(豊田館の想像図
 【世界文化遺産“平泉”】
 「平泉」到着は15:00(予定は14:00)、一応、あちらこちら撮り歩くも掲載は大幅に省筆(抜粋)。かなり疲れが出てきた。16:15に宿泊地仙台に向かう。
 武蔵坊弁慶大墓碑 ;岩手県平泉町
 
 「奥州藤原氏」を頼り逃れてきた「源義経」、「藤原泰衡」(四代)の裏切りで平泉で自害した。供であった「弁慶」は、衣川の河原で全身に矢を受け絶命(弁慶の立ち往生)した。(五輪塔)(説明板
 中尊寺展望台;岩手県平泉町
衣川周辺の藤原遺跡点在区 衣川橋 束稲山(さくら山)
 平泉中尊寺の再訪目的の一つは「展望台」からの撮影・・・・その割に小さな画像で手抜きかも・・・・。
 中尊寺金色堂;岩手県平泉町
 
 
 芭蕉句碑09「五月雨の降のこしてや光堂」(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)、「奥の細道」旅中、平泉「中尊寺金色堂」を訪れた際の作。
 
 拝観料を支払っての見所は、「金色堂」→「芭蕉句碑」→「経蔵」→「奥の細道文学碑・芭蕉像」→「旧履堂」、この一画はいつ撮っても露出不足でローコントラストでイマイチ。
 
 両方向から撮りたかった。
 先月の「旅の未知草」みやげは「ワイン6本」だった。1本飲んだら美味しかった。同じ店に寄り、また「ワイン白3+赤3」に「ビーフジャーキ」をあれこれ買いホテルにチェックイン(20時過ぎ)。本日の走行距離817km、新記録だ。入浴後バタンキューで爆睡・・・・お疲れさまでした。