-細道を訪ね描くや古希の旅-
黒羽補遺 奥の細道“黒羽-白河の関”描き
(栃木県/殺生石を除く)
2017.06.016(金) 晴
 「細道を訪ね描くや古希の旅」、その第4回(今年の3月)は「例幣使・日光街道」で「鬼怒川の篭岩「で終えている。次ぎは「那須野-黒羽-白河の関」へと続く。夜は岩沼「竹駒神社」前のカラオケ店で同僚Aさんと旧交を温めることになっているので「高久・殺生石」は又の機会へと楽しみを温存することにした。
 家を2時半に出て足尾・日光経由で国道461号(日光北街道・黒羽街道)へと車を進めるわけだ。日出時刻は4:22、前橋を通過する頃(4:00)に東の空が明るくなってきた。国道122号は10数年走り慣れた仙台への通う道だ。走るのはもっぱら夜中、今回は夜が明けてからなのか初めての遭遇(ニホンジカが2頭も交通事故死)を経験した。
 日光の夜明け(6:00);栃木県日光市
 以前より気になっていたので、日光の街中、東武日光駅の手前を左折し「霧降大橋」を渡り「大谷川」の左岸沿いを抜けてみた。霧降大橋(赤い橋)の下流に歩行者専用橋があったのでそこから「黒髪山/男体山」(左端)を撮影した。男体山(2486m)の右手が大真名子山(2375m)・女峰山(2483m)・赤薙山(2010m)と日光連山が連なる。芭蕉・曾良は、この辺りから下流数百mの間で大谷川を渡ったようだ。きっと、こんな景色を眺めたのだろう。
合掌を黒髪山に夏の朝(日光)33.2017.sum
 沢観音寺;栃木県矢板市
 
 「沢観音寺」に「澤村城趾」という標柱等があった。境内が二の丸跡という「澤村城趾」、これは那須与一の兄、満隆が築城した沢村城である。
 
 「沢村城跡」と聞けば、なんとなくそんな雰囲気の場所に曽良の句碑がある。曽良句碑No.1「かさねとは八重撫子の名成べし」(かさねとは やえなでしこの ななるべし)、「おくのほそ道」(那須野)、元禄242-3日、曽良の作。(句面拡大
 かさね橋;栃木県矢板市と大田原市
 
矢板市側   大田原市側
 箒川(ほうきがわ)に架かる「かさね橋」の川上側の欄干に曽良の句碑がある。曽良句碑No.2「かさねとは八重撫子の名成べし」(かさねとは やえなでしこの ななるべし)、「おくのほそ道」(那須野)、元禄242-3日、曽良の作。
 大田原市実取の路傍;栃木県大田原市
 
 「かさね橋」を渡り「黒羽」へ・・・・確か、通り道に曽良の句碑があったと思う。曽良句碑No.3「かさねとは八重撫子の名成べし」(かさねとは やえなでしこの ななるべし)、「おくのほそ道」(那須野)、元禄242-3日、曽良の作。前回とほぼ同じ時間帯(朝日の逆光)だが少しはましなものが撮れたかな?
 八幡宮(那須神社境内)/おくのほそ道の風景地;栃木県大田原市
 那須の黒羽では、那須与一が「屋島の合戦」の際に扇の的に向けて矢を放つとき「別しては我国氏神正八まん」と祈誓を込めたとされる「八幡宮」に参詣した。芭蕉の時代は「そう」伝えられていたので参詣した。しかし、与一が祈誓した八幡宮は殺生石近くの温泉神社であることが「それ」以降に判明した。
 
 
 
 雲巌寺;栃木県大田原市
 先ず「雲巌寺」からと「黒羽城址」を横眼に通り抜けた。
 
 
 境内に芭蕉句碑がある。句碑04「木啄も庵はやぶらず夏木立」(きつつきも いおはやぶらず なつこだち)、元禄245日、「奥の細道」旅中「雲巌寺」での作。(説明板
 
紫陽花に碑面撫られ痘痕づら(黒羽)34.2017.sum
 黒羽の「あじさい祭り」は明日から始まるようだ。「芭蕉と曽良の句碑めぐり」を始めたのは平成25614日、「八重撫子;奥の細道“黒羽の地”」で5年目に踏み込む記念すべき旅だ。紫陽花に隠れ句碑(行春や)を見落としたことを懐かしく思い出す。紫陽花(仲夏の季語)。
 
 黒羽芭蕉の館;栃木県大田原市
 
 「黒羽芭蕉の館」の入口にある芭蕉文学碑に刻まれた芭蕉句、句碑05「夏山に足駄を拝む首途哉」(なつやまに あしだをおがむ かどでかな)、元禄249日、「奥の細道」旅中「修験光明寺」での作。
 また、「芭蕉の広場」には、句碑06、「鶴鳴や其聲に芭蕉やれぬべし」(つるなくや そのこえにばしょう やれぬべし)、元禄
24月、「奥の細道」旅中「黒羽」逗留中の画賛句。
 
 「芭蕉の館」前に「芭蕉と曽良像」があり、文学碑(曽良と芭蕉の句)が添えられている。句碑07「かさねとは八重撫子の名成べし」(かさねとは やえなでしこの ななるべし)、「おくのほそ道」(那須野)、元禄242-3日、曽良の作。そして、句碑08、「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)、「おくのほそ道」(殺生石)、元禄2416日、「那須の原」で詠んだ芭蕉の句。(碑面拡大
 ※今回まで「句碑
08」の紹介が漏れていました・・・・面目ない
 左手の木立に文学碑がある。句碑08、「かさねとは八重撫子の名成べし」(かさねとは やえなでしこの ななるべし)、「おくのほそ道」(那須野)、元禄242-3日、曽良の作。(碑面拡大
 芭蕉の道;栃木県大田原市
 「大雄寺」参道付近から「芭蕉の館」まで「芭蕉の道」(遊歩道)が続いている。
 
 「芭蕉の道」入口に芭蕉の句碑がある。句碑09、「行はるや鳥啼うをの目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)、元禄2327日、「おくのほそ道」(旅立ち)、執筆時の作。
 「黒羽城黒門跡」にある芭蕉の句碑。句碑10、「田や麦や中にも夏のほとゝぎす」(たやむぎや なかにもなつの ほととぎす)、元禄
247日、「奥の細道」旅中、那須の黒羽桃雪亭での作。
 旧浄法寺邸;栃木県大田原市
 
 芭蕉・曽良は「奥の細道」の「黒羽」では14日という旅程中最も長く逗留した。宿泊先は黒羽藩城代家老「浄法寺高勝」(桃雪)と、その弟「鹿子畑豊明」(翠桃)邸で、桃雪邸は黒羽城の三の丸にありました。「旧浄法寺邸」は武家屋敷の趣を再現したもの。
 その「旧浄法寺邸」の庭に向かい合って芭蕉の句碑(左画像の奥碑)と四句碑(右画像の奥碑)がある。
 
 句碑11、「山も庭もうごき入るや夏座敷」(やまもにわも うごきいるるや なつざしき)、元禄244日、「奥の細道」旅中、「黒羽」の門人浄法寺高勝(桃雪、秋鴉)を訪ねての挨拶吟。
 元禄2427日、「奥の細道」旅中、「須賀川の等躬宅」で「等躬・芭蕉・曽良」による「三つ物・四句」の俳席が設けられた。「四句」は桃雪から発句を添えた書信で始まる次の四句が右画像の句碑である。
 「雨晴て栗の花咲跡見哉」(桃雪)/「いづれの草に啼おつる蝉」(等躬)/句碑
12「夕食喰賤が外面に月出て」(ゆうげくう しずがそともに つきいでて)翁/句碑13「秋來にけりと布たぐる也」(あききにけりと ぬのたぐるなり)曽良。
 「三つ物」「四句」も「連句」の一つ、最も短い「三つ物」は三人で詠んだ「三句」、ここでは「桃雪から発句を添えた書信」を加えた「四句」である。紹介者を立て、主人が脇句に回る面白い連歌である。
 常念寺;栃木県大田原市
 
 句碑14、「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)、「おくのほそ道」(殺生石)、元禄2416日、「那須の原」で詠んだ芭蕉の句。(説明板
 明王寺;栃木県大田原市
 
 句碑15、「今日も又朝日を拝む石の上」(きょうもまた あさひをおがむ いしのうえ)、「奥の細道」(黒羽)、元禄244日、「那須余瀬」の「翠桃」を訪ねての歌仙(芭蕉・曽良・翠桃・桃雪・土地の俳人)での「秣負ふ」で始まる歌仙での一句。(説明板
 鹿子畑家の墓地;栃木県大田原市
 鹿子畑家の墓地、翠桃の墓碑(小画像)と説明板ならびに「秣負ふ」の歌仙(全句掲示板)。
 西教寺;栃木県大田原市
 
 句碑16「かさねとは八重撫子の名成べし」(かさねとは やえなでしこの ななるべし)、「おくのほそ道」(那須野)、元禄242-3日、曽良の作。
 修験光明寺跡;栃木県大田原市
 句碑17、「夏山に足駄を拝む首途哉」(なつやまに あしだをおがむ かどでかな)、元禄249日、「奥の細道」旅中「修験光明寺」での作。(説明板
 玉藻稲荷神社;栃木県大田原市
 
 句碑18、「秣負ふ人を枝折の夏野哉」(まぐさおう ひとをしおりの なつのかな)、元禄244日、「奥の細道」旅中「那須余瀬」の「翠桃」を尋ねての歌仙発句。(説明板
 遊行柳;栃木県那須町


 先月の「スケッチ旅」は、「代田風景」を撮影したく、風景を優先し「象潟」を選んだ。「碑撮り旅」ならば、ここ「遊行柳」を選ぶのが筋であろう。
 
 句碑19、「田一枚植て立去る柳かな」(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)、「おくのほそ道」(遊行柳)元禄2420日、「奥の細道」旅中「芦野遊行柳」での作。芭蕉が最も敬愛した歌人の「西行歌碑」(道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ)は反対側にある。
 境の明神 ;栃木県那須町・福島県白河市
 
住吉神社(栃木県那須町)   玉津島明神(福島県白河市)
 「境の明神」とは、県境に二社並立している神社「住吉神社」(男神;中筒男命)と「玉津島明神」(女神;衣通姫)の総称である。(説明板
 「玉津島明神」に芭蕉の句碑がある。句碑20「風流の初や奥の田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、「おくのほそ道」(須賀川)元禄24月、「須賀川」での「等躬」への挨拶吟。(句碑横置
 
 
 「玉津島明神」の向かい側に「白河二所関址碑」がある。

 元禄
2年当時は、すでに「白河の関」はなく、その場所も定かでなかったが、曽良は「白河の関は二所ある」ことを知っていた。この後、「古関」へと向かっている。
→(碑面拡大
 ここで一通りの撮影を終えた。待っていたかのように、行方から雷鳴が聞こえ暗くなってきた。10分も走らないうちに叩きつけるような大粒の雨、そして直ぐに雹になり道路は川のようになった。(12:30
 これより先、二通りのコースがある。①時間に余裕が無ければ「須賀川Iから白石まで高速を走る」→「阿武隈PA」「吾妻SA」「国見SA」に芭蕉・曽良の句碑がある。そして、翌日の帰路「岩角寺」(本宮市)の芭蕉句碑を撮る。②時間が大幅に余れば、国道4号を走り「岩角寺」と一般道から「国見SA」の芭蕉句碑を撮る。
 岩角寺(がんかくじ) ;福島県本宮市
 
 芭蕉の句碑21「西か東か先早苗にも風の音」(にしかひがしか まずさなえにも かぜのおと)、「おくのほそ道」(白河の関)元禄24月、「白河の関」での作。(説明板
 東北道国見SA;福島県国見町
 
 芭蕉の句碑22「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」(さなえとる てもとやむかし しのぶずり)、「おくのほそ道」(信夫の里)元禄252日、「福島」で「陸奥の田植風景」を詠んだ句。
 竹駒寺;宮城県岩沼市  「普通のお寺さん」から「都会的なお寺さん」へ 
 
夕虹や二木の松の絆かな(武隈の松/二木の松)35.2017.sum
 古希を5日前に迎えての「古希の旅」。岩沼在住時は本社の業務課長と担当事業所の生産管理課長との交代人事で彼の家に借家住まい。彼は本社から中国の事業所へ海外赴任、それが解け横浜の子会社へ出向。私が独立退職、彼は早期退職で私は他の借家に転居。今回は聞き手の私のワンマンショー。夕虹(虹の子季語)(三夏の季語)。
 岩沼に着いたのは17時半、竹駒神社近くのAさん宅でピックアップ、竹駒神社前のカラオケ店近くに駐車。「竹駒寺」の脇を抜け夕食を食べ久し振りのカラオケで旧交を温める。かつての住処から400mほどの所、21時に分れ仙台のホテルへ。今日の走行距離は473km、翌日0時過ぎに帰宅、総走行距離は913kmであった。