-細道を訪ね描くや古希の旅/細道や一碑一会の旅日記- |
徘徊 ; 奥の細道“曾良日記”描き (埼玉県久喜市→栃木県-福島県桑折町) |
2017.12.015(金) 晴/薄曇り |
「奥の細道」の「それなりの場所」は「ほぼ数回」訪問し「これ以上何撮ろうか」というところまできている。それでも「仙台出張」は「撮影の楽しみ」を持ち続けたいと自らに言い聞かせている。そんなことで、「曾良随行日記」に記載されている「マイナー」な「ゆかりの地」を無理くり拾い出した。 |
小山の屋敷(祇園城/夢破れし館跡/足利氏館跡→小山城);栃木県小山市 | ||
「栗橋関所跡」同様、ここ「小山城跡/祇園城跡」にも「奥の細道」の足跡は残っていない。ただ、「曾良随行日記」の「廿九日 辰ノ上刻、マヽダニ出。小山ヘ一リ半。小山ノヤシキ、右ノ方ニ有。」と記されているのみ。これまた、元禄二年(1689)→平成二十九年(2017)と歳月を経て、古希の老人をここまで惹きつけるは、「奥の細道」(芭蕉)の魅力の一つであろう。 | ||
「奥の細道」について一言も触れていないが「説明板」をご覧頂くことで「小山の屋敷」については語らず。 | ||
冬半ば古希の彷徨い祇園城 42.2017.win | ||
冬半ば;「仲冬」の子季語、「彷徨い」(さまよい) |
城郭を廻らす「空堀」(旧結城道)と城址より思川の彼方に連なる日光連山、中央に男体山が望める。 |
小山評定跡碑(小山市役所);栃木県小山市 | ||
「奥の細道」より89年前のこと・・・・「奥の細道」とは無関係、「小山の屋敷」に立ち寄ったついでの寄り道。 | ||
慶長5年7月25日(1600)、会津の上杉討伐のために小山に来た徳川家康が、石田三成挙兵の報を受け、小山城内の南の領域にある須賀神社境内に三間四方の仮御殿を急造。諸武将を集めて今後の方針を諮った軍議。(碑文) |
金売り吉次の墓;栃木県壬生町(壬生藩の城下町、日光西街道の宿場町) | ||
「曾良随行日記」に記された「廿九日・・・・壬生ヨリ楡木へ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有。」・・・・と、たった二行の記述に惹かれる古希老人の刹那さ。(説明板) | ||
八坂神社;栃木県那須塩原市 | ||
先ずは、「八坂神社」の芭蕉句碑だ。句碑01「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」(のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)建立1808.10、「奥の細道」、元禄2年4月、「那須の原」(黒羽から高久に向かう4月16日、手綱をとる馬子の願い)で詠んだ句であろう。(説明板) |
芦野氏居城桜ヶ城跡(御殿山);栃木県那須町 |
「芦野御殿山」は「桜ヶ城」、古くからの桜の名所、桜の季節(4月中旬/約800本)に通過してみよう。 |
芦野氏旧墳墓;栃木県那須町 | ||
芦野家の墓は、「建中寺」にあるものを「新墳墓」と呼び、ここ国道294号(旧陸羽街道)沿いの竹林にあるものを「旧墳墓」と呼ぶ。(説明板) |
芦野氏陣屋裏門(移転);栃木県那須町 | ||
芦野宿の街並み;栃木県那須町 | ||
今回は、車で「ざっと」芦野宿(街並み)を流し見した。これを下見と位置付け、来春には「歴史と史跡のまち芦野・伊王町」をゆっくり探索してみようと思う。以下に、那須町のPRがありました。 | ||
那須町の芦野・伊王野地区は、共に城下町として栄え、芦野は奥州街道の宿駅として、伊王野は奈良の都と陸奥の国を結ぶ東山道として数多くの史跡や名所が存在します。田畑に民家が隣接する風景は、一体となって季節ごとにその風情さが伝わります。松尾芭蕉や源義経のゆかりのある芦野・伊王野へどうぞお越しください。 |
遊行柳;栃木県那須町 | ||
柳の剪定?(台風の被害で枝が折れたのだろうか)・・・・歪んだ形で来年は撮影向きとは思えない。 | ||
遊行さり年輪ひとつ枯柳 43.2017.win | ||
遊行さり(遊行然り);然り(しかり、さり)、ここでは「さり」と仮名表示。「枯柳」;三冬の季語。「奥の細道」も「清水流るる柳」も葉を落とす頃、ひとつ年輪(単なる経年でなく年輪は物語るモノを含む)を重ねる。 |
芭蕉句碑 | 西行歌碑 | 与謝蕪村句碑 |
芭蕉句碑02「田一枚うゑてたち去る柳かな」(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)建立1799.4、元禄2年4月20日、歌枕で知られる「遊行柳」での作。 西行歌碑「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」 蕪村句碑「柳散清水涸石処々」 |
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境の明神(住吉明神/玉津島明神);栃木県那須町/福島県白河市 | ||
「八坂神社」「遊行柳」(芦野宿)は通り道、まして幾度となく撮影している。そういってしまえば、全てが再訪に近い。ならば、再々訪でも気付きはあろうと立ち寄り「境の明神」で陸奥入り、丁度予定より1時間遅れ・・・・これも「未知草」、来春の旅「歴史と史跡のまち芦野・伊王野」が見え大きな収穫というものだ。 | ||
旧奥州街道に面して、下野(栃木県側)と陸奥(福島県側)の国境を挟んで「境の明神」が二社並立している。前者は「住吉明神」(左)、後者は「玉津島明神」(右)を祀っている。詳しくは「説明板①」「説明板②」。 |
旧奥州街道を挟み「境の明神」の向かい側に「白河二所之関址」碑がある。 |
金売吉次兄弟の墓;福島県白河市 | ||
「奥の細道」(曾良随行日記)に記されている「金売吉次の墓」は「栃木県壬生町」である。「金売」なる者の総称として伝承された伝説のようなもので「その墓」はこれら以外にもある。説明板。乗りかかった船で、この地も立ち寄ることにした。 |
鹿嶋神社;福島県白河市 | ||
「曾良随行日記」より、「白河関」から「須賀川」に向け「○4」の記述。「四月廿一日 ○うたゝねの森、白河ノ近所、鹿嶋の社ノ近所。今ハ木日本有。かしま成うたゝねの森橋たえいなをふせどりも通ハざりけり」・・・・その「鹿嶋神社」と「うたたねの森」に寄る。 | ||
「鹿嶋神社」は、「日本三鹿嶋のひとつ」らしくとても立派な神社だ。文明13年(1481年)時の城主小峯政朝が神社において1万句奉納の連歌会をおこないました。著名の連歌師宗祗が西国からはるばるこの地にやって来たのも、この会に出るためでした。(宗祇戻し/白河市参照) |
太鼓橋 | 随身門 |
拝殿(後方に本殿) | 拝殿右方向に松尾神社 |
転寝の森;福島県白河市 | ||
「転寝の森」は、源義家が陸奥に下った際、林の下でしばらく休み、うたたねをしたことからこの名前がついたと伝承(白河風土記)。昔は森か林だったらしいが、江戸時代には杉が2本と桜の若木が2本だけになったと伝えられる。歌碑「いにしへのもの見の杉も跡耐えて名のみぞ残るうたた寝の森」(阿部正方;備後福山藩主/広島県) |
田村神社(旧泰平寺);福島県郡山市 | ||
「曾良随行日記」によれば、四月廿九日快晴「巳中剋、発足。(須賀川発つ)石河滝見ニ行。(乙字ヶ滝)・・・・ソレゟ(より)弐里下リ、守山宿(現郡山市内)と云馬次有。御代官諸星庄兵へ殿支配也。問屋善兵へ方へ幽碩ゟ状被添故、殊之外取持。・・・・」以下に続く。 | ||
「・・・・又、本実坊(守山の寺)・善法寺へ矢内弥市右衛門状遺ス。則、善兵へ、矢内ニテ、先大元明王へ参詣。裏門ゟ本実坊へ寄、善法寺へ案内シテ本実坊同道ニテ行。村ㇾ雪哥仙絵、讃宗鑑之由、見物。内、人丸・定家・業平・素性・躬恒、五ふく、智証大し井金岡がカケル不動拝ス。」(説明板)(簡略説明板) |
「田村神社」は初めてではない。今年の7月に再訪の予定であったがナビの設定ミスで「もう一つの田村神社」に行ってしまい「違う!違う!」と悔やむ始末。かつては「泰平寺」、神仏分離で神社が残り「田村神社」になった。再訪の目的は、境内の建物を改めて撮影したかった故のこと。 |
芭蕉句碑4「風流のはじめや奥の田植うた」(ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)、元禄2年4月、「奥の細道」旅中「須賀川」での作。「須賀川」で「等躬」への挨拶吟。到着やすぐに等躬「覆盆子を折て我まうけ草」・曽良「水せきて昼寝の石やなをすらん」の三吟歌仙を開いた。境内で除雪作業を行っていた宮司様とお話をし記念撮影までして頂きました。 | ||
細道や吐く息白し泰平寺 44.2017.win |
旧伊達郡役所(桑折町文化記念館);福島県桑折町 | ||
冬の夜明けは遅く、夕暮れは早い、日入時刻は16:20(福島市)、到着時刻は16:23(予定15:30)、途中の道草で50分程の遅れ。県境ゆえ蔵王連峰にかかる冬雲で夕日を覆っている。 | ||
少し前にフェイスブックを立ち上げた。知人検索でかつての部下が検索、かつての職場近くのレストランで夕食の約束をしてある。福島市通過中にメールを送る。17:30には退社出来るとの返信で2時間後の「18:00」で約束をした。いつもの買物(一ノ倉、フカヒレスープ)をするためやや遠回りになるし桑折町での撮影も残っていたから余裕を持たせた。時間読みにはかなりの精度を持っている。その自信を裏付けるが如く、帰宅ラッシュ帯といえども「18:00」ピタリに到着した。そして、チェックインは20時過ぎ、本日の走行距離は496km。 |