-草枕旅の未知草下野の万葉歌碑を指折り読みし- |
万葉の香 ; 東歌・防人の歌めぐり |
2019.03.15(金) 晴 |
先月の「旅の未知草」(上野三碑と那須国造碑)で、2番目「山上碑」を訪ねた際に「石碑之路」(高崎自然歩道)なるものの存在を知った。この遊歩道沿いには29基もの万葉歌碑が建てられているという。そこで「よっしゃー」となった次第・・・・「万葉和歌の碑を訪ねる旅」(第1話)、どうなることか? | |
「下野で詠まれた「東歌」と「防人の歌」(万葉集) | |
東歌 | 「下野ぬ安蘇の河原よ石踏まず 空ゆと来ぬよ汝が心告れ」 (しもつけぬ あそのかわらよ いしふまず そらゆときぬよ ながこころのれ) |
→下野(栃木県)の安蘇の河原(安蘇川・現秋山川)から、私は石を踏まずに空を飛んで来ましたよ。だからあなたの心を言ってください。 | |
「下つ毛野三毳の山のこ楢のす まぐはし子ろは誰が笥か持たむ」 (しもつけの みかものやまの こならのす まぐわしこらは たがけかもたむ) |
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→下野の三毳山(標高229m;栃木県)のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれのお椀を持つのかな(だれと結婚するのかな)。 | |
防人の歌 | 「今日よりは顧みなくて大王の 醜の御楯と出で立つ我は」 (きょうよりは かえりみなくて おおきみの しこのみたてと いでたつわれは) |
→今日からは家をも身をも顧みすることなく、大君の強い御楯となって、私は出立するのである。 | |
「国々の防人集ひ船乗りて 別るを見ればいともすべなし」 (くにぐにの さきもりつどひ ふなのりて わかるをみれば いともすべなし) |
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→国々の防人が集い、船に乗り別れて行くのを見るのは、なんともやるせないことだなあ。 | |
「旅きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ」 (たびゆきに ゆくとしらずて あもししに ことまをさずて いまぞくやしけ) |
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→長旅にゆくとは知らず、母父に別れの言葉もかわさなかった、今になって悔やまれることだ。 |
今回の「旅の未知草」(下野編)の旅程は・・・・家 3:00 →6:00「唐沢橋」(安蘇の河原)→「観光物産会館」→「万葉公園かたくりの里」→「三毳神社」→「胸形神社」→「下野風土記の丘公園」(再訪)→「龍興寺」(再訪)→「護国神社」→「川の一里塚」15:00→20:00 仙台 |
【安蘇の河原】 栃木県佐野市 |
「安蘇川」(現秋山川)は、利根川水系渡良瀬川支流の一級河川で群馬県みどり市との境界に位置する「氷室山」(栃木県佐野市秋山町)に源を発する。栃木県佐野市を南下する。「東歌」で詠まれた「阿蘇の河原」の細部特定はなされていないが、歌碑が建てられている「佐野市栃本町」の「唐沢橋」付近と仮定し、「秋山川」上流方向を撮影、この時期は干上がって「水無川」になっていた。(日出時刻;5:53 到着時刻;5:40)左岸唐沢山より日出 |
下野ぬ安蘇の河原に来てみれば空ゆと聞くが水も空かな |
(しもつけぬ あそのかわらに きてみれば そらゆときくが みずもくうかな) |
「安蘇の河原」を目にし、「陸奥みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか 」(平兼盛)を下敷きに、一首詠んでみました。 |
【唐沢橋】 栃木県栃本町 | ||
「東歌;相聞往来の歌」(万葉集;巻14-3425下野の国の歌)、「下毛野安蘇の河原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ」(志母都家努 安素乃河泊良欲 伊之布麻受 蘇良由登伎奴与 奈我己許呂能礼)の歌碑が唐沢橋西詰に建立されている。画像に拡大画像がリンク付けられています。碑面の拡大はこちら→右画像(表)、左画像(裏)。 |
【金井上町の歌碑】 栃木県佐野市(厄除大師北角交差点付近) | ||
「東歌」(万葉集;巻14-3425下野の国の歌)、「下野安蘇の川原石踏ず空ゆと来ぬよ汝が心告れ」の歌碑が道路脇の歩道に張り付くように建立されている。画像に拡大画像がリンク付けられています。(左は一眼レフ、右はコンデジで撮影したもの) |
【下毛野国の夜明け】 栃木県佐野市 | ||
「夜明け」の撮影は、旅路の途中もしくは第一目標地点と決まっていた。今朝の日出時刻は 5:53、「唐沢橋」を後にしたのは 6:03、第二地点に着いたのは 15分後、夜明けの静寂な街、曙光で目がくらむ。路肩に車を停め撮影(右画像)、そして佐野厄除大師様の駐車場に停めさて頂き境内を拝観、「金銅大梵鐘」でチャンスをゲット(左画像)した。 |
【厄除大師(惣宗寺)】 栃木県佐野市 | ||
朱雀天皇の天慶7年3月(944)、奈良の僧 宥尊上人が開いた寺で、 最初は日本の仏教で最も古い南都六宗の法相宗に属し、正しくは春日岡山転法輪院惣宗官寺 という。一般には佐野厄除大師(天台宗)の通称で知られる。 |
【万葉公園かたくりの里】 栃木県佐野市 | ||
「万葉公園カタクリの里」は、「三毳山」の北側裾野にあり、万葉歌碑がある。「東歌」(万葉集;巻14-3424下野の国の歌)、「下つ毛野三毳の山のこ楢のす まぐはし子ろは誰が笥か持たむ」(之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思児呂波 多賀家可母多牟)。画像に拡大画像がリンク付けられています。→副碑の拡大 |
【三毳神社】 栃木県栃木市 |
「三毳山」(安蘇山;海抜229m)、南北約3.5kmに渡り連なる細長い山。(国道50号佐野バイパスより撮影) |
「三毳神社」は、「三毳山」の「万葉公園カタクリの里」とほぼ正反対の位置にある。事前の行程設計時に頭に入れてなかったことで迷いに迷ってしまった。「三毳神社」に着いて、夜間ではあるが何度もトイレ休憩した道の駅「みかも」に隣接していることに気付いた。 |
【胸形神社】 栃木県小山市 | ||
「胸形神社」の境内に万葉歌碑がある。「防人の歌」(万葉集;巻20-4376)、「旅きに行くと知らずて母父に 言申さずて今ぞ悔しけ」。この歌碑は当初のプランになく、直前になって気付き予定変更したもの。 |
【琵琶塚古墳】 栃木県小山市 |
「琵琶塚古墳」は、栃木県第2位の規模を誇る前方後円墳(6世紀初頭の築造)。今年1月は通過で未撮影。 |
【風土記の丘公園】 栃木県下野市 |
「東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ」(柿本 人麻呂)(万葉集;巻01-0048)→東の野に曙光が見えて、後ろを振り返ってみると、西の空には月が傾いているのが見える。 |
「時鳥亭」で観光協会の方を待ち、お忙しい中でのご丁寧なご案内を頂いた。 |
「風土記の丘公園」に建立されている「万葉歌碑」は全て撮影・掲載しました。ここに掲載した、「時鳥亭」のような「和歌板」が公園内に20首(現代短歌を含む)ほどあります。立ち止まり、口遊み鑑賞するのも風情があると思います。 |
【龍興寺】 栃木県下野市 | ||
近世初頭には薬師寺不動院の流れをひくといわれる安国寺が旧伽藍内に再建され(現在の安国寺)、佐竹氏から寺領10石を寄進された。また、薬師寺地蔵院の流れをひくといわれる龍興寺(現在の龍興寺)は、佐竹氏から寺領20石を寄進された。両寺は天和元年(1681)から享保4年(1719)にかけて薬師寺の正統を争う訴訟を起こしている。議論の末、天保9年(1838)、「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護」という合意に達し現在に至る。 |
「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護」、その「龍興寺」さんにある史跡「道鏡塚」も再訪目的のひとつである。 | ||
「龍興寺」さんには「自治医科大学の聖霊殿」がある。明後日(3.17)に渡米し4月1日に帰国する兄の「道中の安全祈願」と「帰国後の難しい最新医療検査」の無事をお願いした。4月の第2週には元気づけに行く予定だ。 | ||
冬籠り春風に目覚め旅立ちぬ下野の歌碑指折り読みし | ||
(ふゆごもり はるかぜにめざめ たびだちぬ しもつけのかひ ゆびおりよみし) | ||
ここまでの2ヶ所は、「万葉集;防人の歌」に編まれている2首である。これよりの2ヶ所2首も「防人の歌」になる。その「防人の歌」とは、大化の改新(646)の後、九州沿岸の守りについた防人が詠んだ歌であり、巻13、14、20に含まれている。防人には東国の人たちが選ばれ、徴兵に先立ち親兄弟・彼女への別離が詠まれている。 |
【護国神社】 栃木県宇都宮市 | ||
「護国神社」の駐車場は満車状態、駐車場入口に万葉歌碑があり停車状態(2分程度)で撮影し後にした。「防人の歌」(万葉集;巻20-4373)、「今日よりは顧みなくて大王の 醜の御楯と出で立つ我は」→今日からは、自分のことを顧みることなく、天皇の力強い楯として私は出発する。 |