-草枕旅の未知草石背国万葉歌碑を指折り読みし- |
石背国 ; 歌碑に聞く令和の足音 |
2019.04.19(金) 晴 |
新元号が四月朔日に発表された。万葉集の「梅の花の歌三十二首并せて序」、「初春の令月にして気淑く風和ぎ梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫す」より引用し「令和」とする。新元号ゆかりの地「大宰府展示館」は一週間で、来館者か10,000人を超えたという。それまでは、一日で40人がいいところ・・・・「万葉集ブーム」は東北にも波及するだろうかと不安な「碑撮り旅」になった。 |
【白河小峰城跡】 福島県白河市 | ||
日出は4:56、ポツポツ小雨が落ちてくる中4:36到着、当然撮影不可、朝食を摂り時間調整、5:00から小峰城跡を右回りで一周、桜が満開、日出写真に代わり大満足のスタートが切れた。「春雨じゃ濡れて行こう」と問題なし。 | ||
【白河第一小学校】 福島県白河市 | ||
銀も金も玉も何せむに まされる宝子にしかめやも |
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しろかねも くがねみたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも |
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銀母 金母玉母 奈尓世武尓 麻佐礼留多可良 古尓斯迦米夜母 |
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万葉集;巻05-0803 山上憶良 | ||
銀も金も宝石もどれほどのことがあろうか。どんな宝も子供には遠く及びはしない。 →詠吟 |
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昭和51年度卒業生保護者一同が子供たちの卒業にあたり学校へ贈ったもの、碑陰には当時の校長深谷健の歌「あ子のこと思い想いていくたびかこの坂道をかよいつるかな」と文が自筆で彫られている。 →歌碑拡大、歌碑背面 |
歌碑(左上)は、校門を入り右手植込にある。右上は校門前の道路で桜が綺麗に咲いていた。 | ||
子を想う親心かな眼に入れてまされる宝子にしかめやも | ||
本歌の「下敷き」は、2句以内とするのがルールのようです。第4・第5句を「本歌取り」で詠んでみました。 |
【翠ヶ丘公園】 福島県須賀川市 | ||
「翠ヶ丘公園」は、芭蕉句碑の撮影で立ち寄った「十念寺」近く、「須賀川博物館」がある公園だ。ここには「万葉歌碑」が60基ある。「公園の歌碑マップ」を印刷し、効率的な撮影順路を決めた。序でにデパイダで歌碑間の概算距離を計算してみると「合計3,409m」。余裕をみて約4,000m、1時間コース、撮影時間を加え1時間30分。 「南館駐車場」に車を止め北側、そして南側と読み歩いた。小雨で手持ちの地図が濡れ、チェックマークも滲み、何処が何処か、挙句の果てに迷い、予定「7:10-8:40」(1:30)に対し、「6:31-9:48」(3:17)、疲労骨折かと思うほどに足が痛む。探し当てた歌碑は「50/60基」(83%)。→Google map;「翠ヶ丘公園」(南館駐車場) |
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【王宮伊豆神社】 福島県郡山市 | ||
「王宮伊豆神社」は、「葛城王」(橘諸兄)と「采女」(うねめ)を祀った神社であり、裏山に「葛城王」の墓、境内には「葛城王祀碑」(右上画像)がある。→説明板①、説明板② |
「橘諸兄」(たちばなの もろえ)は、奈良時代の皇族・公卿。初名を「葛城王/葛木王」と言い、臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となる。敏達天皇の後裔で、大宰帥・美努王の子。母は橘三千代で、光明子(光明皇后)は異父妹にあたる。官位は正一位・左大臣。井手左大臣または西院大臣と号する。大伴家持と親交があり、「万葉集」の撰者の1人とする説もある。なお、「万葉集」には7首掲載されている。 何故、立ち寄ったかについては、次項「采女神社」(山の井公園)で詳しくふれる。 |
【采女神社】(山の井公園) 福島県郡山市 | ||
「うねめの里」の看板が電柱に取り付けられている。「采女」(うねめ)は、日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官を指す。「日本書紀」によると、既に飛鳥時代には地方の豪族がその娘を天皇家に献上する習慣があった。采女は地方豪族という比較的低い身分の出身ながら容姿端麗で高い教養を持っていると認識されており、天皇のみ手が触れる事が許される存在と言う事もあり、古来より男性の憧れの対象となっていた。 「安積采女(春姫)」→説明板 |
約千三百年前、安積の里、山の井というところに、小糠次郎という若者が美しい妻、春姫と住んでいた。二人は大変仲むつまじく、野良仕事にも次郎は妻の絵姿を木の枝に掲げておくほどだった。そんなある日、いつものように野良に出て仕事に精を出していると、突然強風が吹き、枝にかけた妻の絵姿が空高く舞い上がってしまった。ちょうどその時、奈良の都から奥州巡察使という名目で、この地に下向した 葛城王の一行の前に絵姿が舞い下りた。都から遠いみちのくとやらにも、こんな美しい女がいるのか、ぜひ会ってみたいと思った葛城王は、国司の館につくと、あの絵姿の女を召し出すように国司に命じた。召し出されたのは、春姫だった。姫は王の前にすすみ出て杯をささげ、「安積山影さえ見ゆる山の井の浅き心をわが思わなくに」という和歌を詠んで王をもてなした。続く※ |
安積山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに |
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あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに |
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安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國 |
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万葉集;巻16-3807 陸奥国前采女 | ||
安積山の影が映る泉のような浅い心で、あなたをおもてなししようとは、私は思わない。国の誰がそう思うとも。 | ||
※王は大変喜んで、この地方が貧しく年貢米がとどこおっていたのを、春姫のこの和歌の意をくみとり、三ケ年の年貢のおあずけにした。そのかわり春姫は、夫の嘆きをよそに、馬に乗せられて、奈良の都に「采女(うねめ)」として三ケ年の奉公をすることになった。春姫は都で、帝に仕え、はなやかな暮らしはできたが、安積の里に残った夫の次郎のことは片時も忘れられず、中秋の名月の夜、館の賑わいにまぎれて館をぬけ出し、猿沢の池に身を投げて死んだようにみせかけ、安積の里をめざして走り続けた。女の身でそれは大変な道のりだったが、やっとふるさとに着いた。しかし、わが家に帰ってみると、夫の次郎はすでにこの世にはなく、春姫はあまりの悲しさに、山の井に身を投げ、夫の後を追い果てた。やがて春が訪れ、山の井の清水のまわり一面に名も知れぬ薄紫の美しい可憐な花が咲き乱れていた。だれ言うともなく、二人の永遠の愛が地下で結ばれ、この花になったのだと噂をした。「安積の花かつみ(学名ヒメシャガ)」とは、この花のことである。里人は、春姫の霊を弔い、小さな塚を建て、采女塚と名づけた。→歌碑、歌碑面拡大 |
采女神社は王宮伊豆神社の末社。采女伝説の主人公、春姫の霊を慰めるため、1956年に采女神社建設委員会(片平村)を立ち上げ、村内外より寄付を募り翌年に神社が完成した。建立場所である山ノ井農村公園には、春姫が亡き恋人を追って身を投げたと伝わる「山ノ井清水」や「采女塚」がある。 |
【四季の里緑水苑】 福島県郡山市 | ||
秀峰安達太良を背景に清流五百川(奥羽山脈東麓に源を発し東へながれる。阿武隈川水系、左岸支流の一級河川)に隣接した、約3万坪に及ぶ自然型池泉回遊式の花庭園。ここには、2基の万葉歌碑がある。 |
安積山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに |
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あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに |
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安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國 |
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万葉集;巻16-3807 陸奥国前采女采女 | ||
安積山の影が映る泉のような浅い心で、あなたをおもてなししようとは、私は思わない。国の誰がそう思うとも。 |
歌碑撮影という目的を告げると、ご親切に建立場所を細かく教えて下さった。内緒だが、入園料もそれなりにサービスして下さった。 |
陸奥の安達太良真弓弦着けて 引かばか人の吾を言なさむ |
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みちのくの あだたらまゆみ つらはけて ひかばかひとの わをことなさむ |
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陸奥之 吾田多良真弓 著<絃>而 引者香人之 吾乎事将成 |
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万葉集;巻07-1329 未詳 | ||
安達太良山のまゆみにつるをつけて、弓を引くようにあなたに心を寄せたら、世間では私とあなたを何と噂するでしょう。 | ||
「緑水苑」の方に歌碑の所在を伺った際に「あそこ」と指呼、「すぐ先」と勘違い・・・・疲れた。→説明板 |
今回の「旅の未知草」家を出たのは0:00、立ち寄り箇所は13、まだ半分も終えてない。「緑水苑」の到着は11:25(30分弱の遅れ)、「翠ヶ丘公園」(1時間30分の予定に対し3時間17分も歩き回っていた)で体力を使い果たし疲れがどっと出ている。写真からも、そんな様子がありありと出ている。 |
安積山影さへ見ゆる山の井の 浅き心をわが思はなくに |
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あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに |
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安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國 |
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万葉集;巻16-3807 陸奥国前采女采女 | ||
安積山の影が映る泉のような浅い心で、あなたをおもてなししようとは、私は思わない。国の誰がそう思うとも。 |
「東日本大震災」(2011.03.11)から満8年。未だ石碑の多くは倒壊しロープが張られている。「未だ震災復旧も終えていない」現実に胸が痛む。公園を右回りに抜ける遊歩道のすぐ先に「山の井清水」があった。 |
【旧三春街道】 福島県二本松市 | ||
安太多良の嶺に伏す鹿猪の在りつつも 吾は到らむ寝処な去りそね |
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あだたらの ねにふすししの ありつつも あれはいたらむ ねどなさりそね |
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安太多良乃 禰爾布須思之能 安里都都毛 安禮波伊太良牟 禰度奈左利曽禰 |
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万葉集;巻14-3428 未詳 | ||
あだたらの山に伏す鹿や猪のようにつづけて私はあなたのもとに行こう。臥所を離れるなよ。 | ||
「万葉集」の秀歌でありながら、万葉仮名が読めないのと、いつからとなく「夜ばいの歌」と誤り伝えられたため、地元の人たちに誤解され、敬遠されていた経緯がある。→歌碑面拡大 |
【観音丘陵遊歩道】 福島県二本松市 | ||
陸奥の安達太良真弓はじきおきて 撥らしめ置なば弦著かめかも |
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みちのくの あだたらまゆみ はじきおきて せらしめおきなば つらはかめかも |
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美知乃久能 安太多良末由美 波自伎於伎弖 西良思馬伎那婆 都良波可馬可毛 |
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万葉集;巻05-0803 未詳 | ||
陸奥の安達太良山の真弓で作った弓をほっておいたら、すぐには弦をかけて引くことができないように、急に私の気を引こうとしてもだめですよ。 | ||
下調べの段階から歌碑の場所が特定出来なく「現地任せ」になっていた。やはり、車を停めた場所からかなりの距離、遊歩道反対の登口付近まで下り諦める寸前で見付けた。→歌碑面拡大、説明板 |
【観世寺】(安達ヶ原ふるさと村) 福島県二本松市 | ||
安達ヶ原の「観世寺・黒塚」は、芭蕉・曾良も立ち寄っている。「おくのほそ道」(安積山の段、元禄二年四月二十九日、五月朔日・二日、前後略「・・・・。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。・・・・。」との記述。曾良随行日記には、「五月朔日・・・・。二本松の街、奥方ノはづれニ“亀ガヒト”云町有。・・・・」とあり。 |
みちのくの安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと聞くはまことか |
おばあさんが住んでいた。岩手には病気を患った娘がおり、遠く離れて暮らしていた。ある日旅人夫妻が岩手の元にやってきて、一夜の宿を求めた。旅人の婦人の方は身重で、その名を恋衣といった。旅人夫妻が寝静まった時、岩手は娘の病気には赤子の肝が効くという易者の言葉を思い出し、出刃庖丁を使って、赤子を身ごもっていた恋衣を殺してしまった。しかしその直後、岩手は殺した恋衣が自分の娘であったことに気づいた。気が触れてしまった岩手は、その後訪ねてくる旅人を次々と殺しては喰らう鬼婆となった。 | |
みちのくの だちがはらの くろつかに おにこもれりと きくがまことか |
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拾違集; 平兼盛 | ||
「安達ヶ原の鬼婆伝説」;能の「黒塚」も、長唄・歌舞伎舞踊の「安達ヶ原」、歌舞伎・浄瑠璃の「奥州安達原」もこの黒塚の鬼婆伝説に基づく。 昔(奈良時代)この地の岩屋に、「岩手」という名の |
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歌碑は、「観世寺」の門前(上左)、「阿武隈川」河原の黒塚(上右)にある。→歌碑、説明板、遠景 |
折角なので「観世寺」さんの境内も拝観させて頂いた。「出刃洗の池」の横に「蓮鉢」が並んでいた、お寺さんと競争するつもりは毛頭ないが・・・・つい比べてしまう。そして、・・・・ニタッ! |
【鹿島神社】 福島県福島市 | ||
等夜の野に兎ねらはりをさをさも 寝なへ子ゆゑに母に嘖はえ |
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とやののに をさぎねらはり をさをさも ねなへこゆゑに ははにころはえ |
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等夜乃野尓 乎佐藝祢良波里 乎佐乎左毛 祢奈敝古由恵尓 波伴尓許呂波要 |
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万葉集;巻14-3529 未詳 | ||
等夜の野でをさぎ(ウサギ)を捕まえようと狙う。そのをさぎではないが、おさおさも寝ていないあの子のせいで母親に叱られて。 | ||
「鹿島神社」は、国道4号からわずかに入った場所にある小さな神社だが、何やら歴史がありそうな碑が建っていた。→歌碑、歌碑面拡大、説明板 |
【文知摺観音】 福島県福島市 | ||
「文知摺観音」に、歌碑があることは知っていた。ここは「奥の細道ゆかりの地」ゆえ幾度となく立ち寄っている。かなり前に、目的の歌碑を撮影しているが原画を保存してあるDVD-Rを探し出すより早いし多少の回り道で撮影出来るので、本日のトリとして再訪した。 |
「おくのほそ道」(安積山の段、元禄二年四月二十九日、五月朔日・二日、曾良随行日記にも三十日の記録なし)、芭蕉の句碑は2基(芭蕉像台座は建立は近年)「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」。→句碑拡大、台座拡大 |
だいぶ疲れが出てきたが、境内のお決まりコースを観て回る。受付で「歌碑き(!)基あります」と、ご案内されたが「お目当てのみ」に留め早足で歌碑へと・・・・。 |
陸奥の忍ぶもち摺誰故に 乱れ染めにし我ならなくに |
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みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに みだれそめにし われならなくに |
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古今集;巻14 恋歌4-724 河原左大臣 小倉百人一首 014番 | ||
陸奥で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、乱れる私の心に、いったい誰のせいでしょう、私のせいではないのに(あなたのせいですよ)。 | ||
「小倉百人一首」で知られる「源融・河原左大臣」の和歌。源融、嵯峨天皇の皇子で臣籍降下し源の姓を賜る。六条河原に住んだことから河原左大臣とよばれた。宇治の別邸は後に平等院となる。→歌碑、歌碑面拡大、説明板 |