-細道を訪ね描くや古希の旅-
長閑な旅 奥の細道“例幣使・日光街道”描き
(栃木県惣社町・宇都宮市・鹿沼市・日光市)
2017.03.017(金) 晴
 「4年の歳月」をかけた「碑撮り旅」、「細道を碑撮り馳せるや走馬灯」の付句「たづな弛めて想い廻らす」、写真展で「奥の細道紀行」を一段落、そして「古希」を迎え老け込んではいけないと「薬喰画稿で綴る古希の旅」と再奮起し3回目、「深川-千住-草加-粕壁」と思い出のページを開きなおした。「野木」は、改めて記録を紐解くとして「室の八島-鹿沼-日光-日光北街道」と順を踏んでみようと今回の「旅の未知草」の地を決めた。
 「団塊の世代」の生き様は、まさに「馳せる」で言い表せる。そして、六十路越えての「古希の旅」は「しんみり」と「想い廻らす」旅(人生も旅と芭蕉は言う)。
3回目より再びBGM(Midi)を貼ろうという心境になった。
 「狩人」の「あずさ
2号」は1977325日に発売された懐かしい曲。当時の私たちは熊谷に住んでいた。妻の貯金で中古の「セリカ」に乗った。5年も過ぎるのに子供が出来なく「ローン」を組んだら出来るかもとの「願掛け」で新車の「真っ赤なフェアレディZ」(子供の席を考えて 2by2仕様)を購入した頃の思い出曲です。
 「大神神社」(おおみわじんじゃ)/(室の八島)で“ある写真”を撮りたく、日の出着を逆算し午前3時に家を出た。一昨日は北関東で積もらないまでも雪という天気であった。・・・・若干でも社叢に雪が残り、それが春の朝日に当り“煙”が漂う光景が見られたら最高と期待したからだ。
 
 大神神社の社叢の一画に「室の八島」という小さな池があり、八つの島が浮かび八つの祠(筑波神社・天満宮・鹿島神社・雷電神社・浅間神社・熊野神社・二荒山神社・香取神社)がある。ここには芭蕉の句碑01「糸遊に結びつきたる煙哉」(いとゆうに むすびつきたる けむりかな)、「奥の細道」旅中での句がある。(句碑拡大説明
 
 「煙漂う社叢」でなく「炎が這う社叢」を見ることが出来た。社叢の下草から登る太陽は「素晴らしい」の一言に尽きる。先ずは事前作句。「室の八島」と「大神神社の参道」は、画像 Click で拡大画像
雪解水社叢に漂う煙かな(室の八島)13.2017.spr
 社叢(しゃそう=鎮守の森)の残雪も、雪解水(ゆきげみず;仲春)になり、煙の如くに漂い消えていく。
 
春暁が社叢に咲かす煙花かな(室の八島)14.2017.spr
 ライトアップでなく、「炎が這う」(足元を照らす朝日)社叢の景色をご覧ください。そして、その感動を詠んだ一句です。「春暁」(しゅんぎょう;三春)、「煙花」(えんか;一般には売春婦、“霞んで見える花”の意もあり)・・・・この素晴らしい景色も日が昇れば消えてしまう・・・・夜明けに一時に咲く儚い花(一夜の恋)のようだ。
 「室の八島」を日の出、次の「鹿沼」は830分開園、どう考えても時間が余り過ぎる。時間調整を兼ね「大谷」を経由、「千手院大谷寺」「大谷資料館」は早朝ゆえ寄れない。「大谷観音」(大谷公園)のみに留めた。
 
 
 「大谷観音」の展望台に上がってみる価値あり・・・・到着後に直行した。右画像は昭和後半に営業していた「山本園大谷グランドセンター」(娯楽ヘルスセンター)、景観にマッチした廃墟だ。
 
 「大谷公園」の広場を囲む「大岸壁」「天狗の投げ石」(小画像)・・・・広場には散歩する人も居なく、車道からの歩道脇はシャッター通化しているのか閑散としていた。観光客はミュージアムがある「大谷資料館」の方に行き、こちらはオプション観光?
 
 「平和観音」裏手にある「千手院大谷寺」の拝観は830分より、やむなく外観だけ撮影した。
 鹿沼に立ち寄る目的は「掬翠園」(屋台のまち中央公園)にある芭蕉句碑の撮り直しである。開園時刻まで30分程あったので「今宮神社」の句碑を撮影した。どの時間帯でも逆光になるので句面撮影は真面に撮れない。
 
 句碑02「君やてふ我や荘子の夢心」(きみやてふ われやそうじが ゆめごころ)、門弟(怒誰)に宛てた書簡に記された芭蕉句との伝承があるも存疑の部として扱われている。
 
 「掬翠園」は鹿沼三名園の一つで、唯一現存する「翠(みどり)を掬(くみとる)」の意味があり、茶道・華道等の文化活動の拠点として利用されている。
 
 句碑03「入逢の鐘もきこえず春の暮」(いりあいの かねもきこえず はるのくれ)「奥の細道」旅中での句がある。
 鹿沼市銀座の薬師堂前に「怒誰宛芭蕉翁書簡之碑」(存疑)がある。元禄3410日付真筆(1958年鹿沼市鈴木保三郎市宅で発見)。
 
 
 句碑04「君やてふ我や荘子の夢心」(きみやてふ われやそうじが ゆめごころ)、門弟(怒誰)に宛てた書簡に記された芭蕉句が添えられている。今宮神社の句碑と同句。(書簡之碑文拡大)
 「日光杉並木街道」は、国道119号と国道121号にある。今回は、国道121号(例幣使街道)の「日光杉並木街道」を走った。信号で言えば「板橋-小倉町」(6.5km)、R121の旧道ゆえ交通量は少なく堪能できた。

春光や杉並深し例幣使(日光杉並木)15.2017.spr
 鬱蒼とした日光杉並木街道(例幣使街道)。眩しい「春光」(しゅんこう;三春)も林床まで届かなく春になったといえ肌寒い風が車窓から行ってくる。尊い日の光、今少し待てよと聞こえてくるような長い杉並木。
 日光道(日光宇都宮道路)の「日光IC」を降り国道119号に出る「宝殿」という信号がある。いつも夜間に通過するので信号は良く知っているが、信号の先に「志渡渕川」があり「筋違橋」(すじかいばし)が架かっている。今まで「川と橋」の存在は全く認知していなかった。
 
 
 「筋違橋」の袂から眺める「黒髪山」(男体山)、芭蕉・曽良もきっと眺めた景色であろう。
 「志渡渕川」に架かる「筋違橋」を渡った右手の細い道が「奥州古道」である。祠の先に見える細い土道、「日光街道」(国道119号)から右に逸れる杉並木(小画像)に続くのだろうか?
 
野仏に雪しろ跨ぎ尋く古道(日光/奥州古道)16.2017.spr
 芭蕉・曽良が宿の主人「仏五左衛門」に教えられた「矢板への近道」である「日光北街道」(日光神橋-霧降大橋-筋違橋-瀬尾)が、ここ「奥州古道」(七里から瀬尾)であるようだ。事前作句、「雪しろ」(ゆきしろ;仲春)
 
 「鉢石宿」(はついし)は、日光街道21番目の宿駅で東照宮の手前にある。上鉢石町には「星の宮磐裂神社」がある。「大谷川」に架かる「神橋」の右岸にある。
 
 その裏手高台に「日光金谷ホテル」があるので様子見をした。
 「日光東照宮」は、「碑撮り旅」(旅の未知草)での参詣は3度目、今回の目的は「養源院跡」の撮影にある。「輪王寺大護摩堂」から二荒山神社への参道(下新道)へと回り込む。
 
  東照宮宝物館(旧館)に、句碑05「あらたうと青葉若葉の日の光」(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)、「奥の細道」旅中での句がある。
 「二荒山神社」で折り返し、もう一つの参道(上新道)を戻る。
 日光には「憾満ヶ淵」の「化地蔵」がある。そして「東照宮の参道」(上新道)にも「化燈籠」がある。
 
 「化燈籠」はスケッチの対象になる。アンダーポジションより遠近感を強調して撮影してみた。

石鳥居 五重塔 社務所に至る石垣通路
 明治維新後に廃寺となった「養源院跡」。芭蕉一行は日光へ着いて「養源院」(水戸家の宿坊を務めた大坊)を訪ね、江戸浅草の「清水寺」からの紹介状を宿坊「養源院」の住職「生英」へ届けている。
 
三猿に問へど廃寺は雪間かな(日光/養源院跡)17.2017.spr
 「養源院跡」は何処と・・・・神厩舎(しんきゅうしゃ;神に仕える神馬/しんめが休む小屋)で飼われていた猿に問うも「三猿」(さんえん;見ざる・聞かざる・言わざる)は、「雪間」(ゆきま;仲春)に目配せを・・・・。事前作句
 「養源院」は、徳川家康公の側室「お六の方」(養源院)の菩提を弔うために「お勝の方」(英勝院)が建立したお寺。「養源院」(家康の11男、水戸藩頼房の養母)と「英勝院」(家康の側室)、二つのお墓が並んでいる。「お六の方」は、もとは「お勝の方」の部屋子で後に家康の側室(家康公が亡くなられた時は19歳、家康公の法事で日光東照宮に行った際に急死、29歳・・・・死因は?)になった。
 
 「日光東照宮」を後に、駐車場に向かう参道より眺めた「男体山」(黒髪山)。
 「憾満ヶ淵」は「自然と人間の造形美」のコラボレーション・・・・「おくのほそ道の風景地」として登録されている。ここに来ると心が休まる。先ず「自然が造った造形美」(大谷川の浸食で造られた憾満ガ淵)を中心に大小6枚の画像で紹介します。「かんまん」の梵字が刻まれている岩。
 
 文科省指定「おくのほそ道の風景地」では、「ガンマンガ淵」(慈雲寺境内)とされ、奇勝「憾満ヶ淵」(ガンマンガ淵)とも説明文で呼称されている。地元観光案内では「含満ヶ淵」とも「干満ヶ淵」とも紹介されている。
 東屋は「霊庇閣」(れいひかく)と呼ばれる護摩壇。大谷川(だいやがわ)に面した憾満が淵に「慈雲寺」(廃寺)。その境内に数知れぬ「並び地蔵」。幾度数えても数が合わないことから「化地蔵」と呼ばれる。
 
永き日にひふみ唄うや化地蔵(日光/憾満ガ淵)18.2017.spr
 日が長く感ずる春の日に数えてみても“数が合わない”、不確かな“おぼろげ”を詠み込みたかったが「朧は夜、昼は霞」、しっくりいかず“ひふみ”(和の数え方)に表現を変えてみた。「永き日」(ながきひ;三春)
ひふみよいむなやこと もちろらねしきるゆゐ つわぬそをたはくめか うおえにさりへてのま すあせゑほれけ (47)
 先日の雪が解け遊歩道は糠っていた。今日の靴は初おろし・・・・タウンシューズなのでスニーカーにしなさいと妻に言われたことを思い出した。(碑撮り旅は道なき道を歩き回ることが多いので・・・・)
 
 大画像中央左手、大谷川右岸に見えるのが「霊庇閣」・・・・スケッチの題材にしたい。小画像中央先に見えるのが「慈雲寺」。
 「大日堂跡」ならびに「安良沢小学校」の芭蕉句碑は、過去に撮影しているがいずれも出来栄えがイマイチのため再撮影のため立ち寄った。
 
 大谷川に架かる「大日橋」は過去に渡り撮影しているので今回は「大日堂跡」から眺めるに留めた。
 
 句碑06「あらたうと青葉若葉の日の光」(あらとうと あおばわかばの ひのひかり)、「奥の細道」旅中での句がある。

 「お休処歩多留庵」駐車場に車を止めたので、「大日堂跡」と「安良沢小学校」は方向違いの同距離。

 「安良沢小学校」は卒業式があったのだろうか・・・・。
 句碑
07「しばらくは瀧に籠るや夏の始」(しばらくは たきにこもるや げのはじめ)、「奥の細道」旅中での句がある。
 「裏見の滝」・・・・計画段階で、時間的にどうかと迷った。いろいろやりくりし所要1時間をつくりだした。到着予定時刻は1320分だが、12時に駐車場に着いた。
 
 無理して行きたかったのは、「裏見」の部分を意識した撮影をしていなかったからだ。「日光裏見の滝」は知名度が高く名所だ。長野県高山村に「裏見の滝」(正式名は雷滝)があり、落差30m、水量も多く裏からも見れる。
 
振向けば裏見の瀧に山笑ふ(日光/裏見の滝)19.2017.spr
 30分足らずで撮影を終え駐車場に戻った。観光客の多い日光東照宮、ここまで足を運ぶ観光客はなく誰一人と逢うことがなかった。昼食を摂り12時半に山を下った。「山笑ふ」(やまわらう;三春)
 日光から矢板に向かった芭蕉と曽良は、「瀬尾-川室-大渡宿」を経て鬼怒川を「大渡橋」で渡り「船生宿-玉生宿-高内宿-矢板宿-沢宿-薄葉宿」を経て「大田原宿」に入ったと思われる。
 仙台出張の帰路は「矢板-日光-足尾」を経て「大間々」に出ている。ここ「大渡宿」も数分で通り抜けている。
 国道461号(日光北街道)、「大渡宿」を抜け鬼怒川に架かる「大渡橋」を渡り「船場」信号を右折すると矢板、左折すると県道77号、日光・鬼怒川方面にわずか戻ると「かご岩温泉」(塩谷町)がある。
 
 仙台出張の帰り道(矢板-日光-足尾-大間々)のルート、「船場」信号を左折し国道461号で日光入りする。かつては、「船場」信号を直進し県道77号で国道121号(会津西街道)まで進み日光入りしていた。夜間走行だが「かご岩温泉」があることは知っていた。
 「かご岩温泉」の隣りの駐車場に車を止め、遊歩道で鬼怒川左岸に広がる奇岩景勝地「籠岩」に向かった。
 
 13時過ぎ、雲が広がり春霞とあいまって撮影条件としては好ましくなく「ぼんやり画像」になった。初下しの靴は、砂・砂利・岩場歩きで嫌な顔をしている。
籠岩や年輪きざむ雪解水(鬼怒川の篭岩/塩谷)20.2017.spr
 宮城の歌枕「小黒崎」や「美豆の小島」と筆した芭蕉、それに勝る無名の「鬼怒川の籠岩」(籠岩は方々にある)には目もくれない。ならば見て詠んでみようじゃないか・・・・「雪解水」(ゆきげみず;仲春)
 
 今回の「旅の未知草」は13時40分(予定15時40分)で終わり。「白河越え」では視界不良となる牡丹雪、宮城に入ると雨になった。
 いつもの行動・・・・「大河原」のコープで「一ノ蔵」と「ふかひれスープ」(気仙沼ほてい製)を購入し「茂庭荘」着は20時30分、走行距離497km、約80kmの道草になった。

 追記) 昨年に続き、生涯学習講座「川柳」を続けている。
 8月の句会で、翌月宿題のお題を出す。そこで考えたのが、9月21日は童話作家宮沢賢治の忌日にあたるので、「宮沢賢治作品名」をお題にしてみよう。(既読、内容問わず)
 作品名「あけがた」・・・・に見た夢とか
あけがたの室の八島に煙花舞う(室の八島)