-飛鳥・奈良時代への彷徨い- |
古碑 ; 上野三碑と那須国造碑 |
2019.02.15(金) 晴 |
「元禄時代」(江戸前期の高度成長期)の「おくのほそ道」で入り込んだ「旅の未知草」、「神仏習合・廃仏毀釈」「湯殿山信仰・即身仏」から「山岳信仰・石鳥居」、そして「古墳時代・国府国分寺・尼寺」と日本史上を行き交う。昨年12月の「上野毛国」で出遭った「神代文字」、年を明けあずみ野の「本村の神代文字」。 今回は「浪漫紀行900話記念」。文字つながりで「上野三碑」(金井沢碑・山神碑・多胡碑)に「那須国造碑」(多賀城碑・多胡碑を加え日本三古碑)と次から次へと「旅の未知草」のテーマは途切れることなく展開する。 |
【サンピラー】 浪漫紀行 900 話記念に華を添える神秘的な自然現象 |
「サンピラー」は日本語で「太陽柱」と呼ばれ、日の出または日没時に地平線に対して垂直方向へ太陽から炎のような光芒が見られる太陽光学現象。霧が晴れたのか、雪雲が消えたのか・・・・その直後に見られる冷たい雨粒がポツンポツンと落ちてくる。車の外気温は氷点下6℃と表示、国道18号軽井沢バイパス沿いの温度表示も氷点下6-8℃。 |
家を出たのは6:23(予定は6:30)と少し早め、今日の高崎市の日出時刻は6:28、「多胡碑記念館」の開館時刻に合わせたので「日出写真」はなし。軽井沢バイパスに入り「鳥居原東」信号を抜けた頃、前方の空に「サンピラー」が確認出来た。路肩停車が可能な場所を目で追い先を急ぐ、昨秋のインプレッサ購入記念ドライブで軽井沢に来た際に蕎麦を食べた「満留井」(軽井沢町長倉)の駐車場に乗入撮影する。(右上画像7:01) 数枚撮ったところで・・・・もしやとの“予感”が、碓氷峠頂で「何かが!」と先を急ぐ。大型トラックが過眠停車する最前部に停車し、ガードレールを跨ぎ碓氷峠落成記念碑(?)から木立の先、谷間から立ち昇る「サンピラー」を撮影する。異種のサンピラーの撮影が出来て感動の一句を詠む。 |
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サンピラー燃ゆる心に余寒なほ |
【妙義山】 群馬県高崎市 |
予定コースは、国道18号から国道17号へ、「聖石橋」を右折し「金井沢碑」に行く予定。通勤ラッシュの混雑を避けたく、横川の外れ「五料」を右折し富岡を抜け回り込むルートに変更した。途中で、妙義山に魅せられ撮影。その後の富岡市内、上野國一之宮「貫前神社」鳥居前で満開の紅梅に目を奪われるも目の保養に留める。 |
【金井沢碑】 群馬県高崎市 | ||
「上野三碑」(金井沢碑・山上碑・多胡碑)は、日本に18例しか現存しない古代(7-11世紀)石碑の最古部類。上野国に住み着いた朝鮮半島からの渡来人がもたらしたもので、彼等との密接な交流の中で、当時の都(飛鳥・奈良)から遠く離れた地元の人々によって刻まれた「1300年前の東アジアの文化交流」を記する重要な歴史資料。刻まれた内容は、中国を起源とする政治制度・漢字文化、インドを起源とする仏教、ユーラシア東端の日本に到達しただけでなく、更に離れた上野国まで広がったことを証明している。この「金井沢碑」は726年に建造された。→説明板 |
【山上碑および古墳】 群馬県高崎市 | ||
「上野三碑」のルート設計に誤りがあったと気付く・・・・先の「金井沢碑」は、高台の新興住宅地(みどりが丘)へとナビが誘導、早朝から個人宅ならびに城山公民館で尋ねる事態に・・・・そして「山上碑」は車がやっと通れる小道へと、ここも山名市営住宅街で迷い何人もの方に尋ねる始末。 やっとのことで駐車場へ、途中で追い越した大学生風の若い娘さん。「おはようございます」と声を掛けられ同じ方向へと急階段を登って行く、「山上碑」に目をくれることなく遊歩道(?)へと姿を消した。 編集時に調べると、ここは「石碑之路」(高崎市全歩道;山名丘陵には山上碑や金井沢碑があり、万葉集に収録された上野国歌の幾首かはこの付近で詠われたという。そして、心の古里ともいえる美しい緑の丘陵として世界遺産登録を準備している)で「万葉和歌」を詠んだ碑が29基建っているという。その最初の歌碑が画像である。→「吾が恋はまさかも悲し草枕多胡の入野のおくも悲しも」。この娘さんに年甲斐も無く思いを寄せ一首詠んでみた。 |
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あしひきの山尊びて石碑之路をたどれば春はあけゆく |
「山上碑」は、母のことを思い、僧になった息子が建てた石碑。飛鳥時代の681年に建立、完存品では国内最古、日本語の源流を明示する石碑。朝鮮半島の新羅の石碑(6世紀)に類似しているという。→説明板 |
暖かくなったら、この「石碑之路」(いしぶみのみち;高崎自然歩道)を歩いてみようと調べてみた。上信電鉄山名駅の直ぐ近くの山名八幡宮を抜けて上り坂を進む住宅街に、万葉歌碑他いくつかの石碑を目にすることができるという。山道に入ると、山之上碑があり、その辺りからは100m程度の間隔で万葉歌碑が多数建てられている(石碑之路)。そして更に西へ進むと金井沢碑があり、根小屋駅に至る。これが、高崎自然歩道のようです。 |
「山上碑」を後にし広い道に出ると左手に「山ノ上地蔵尊」が目に止った。→説明板 |
【多胡碑】 群馬県高崎市 | ||
「多胡碑」は「上野三碑」として知られるが、「多胡碑」に「那須国造碑」(栃木県大田原市)と「多賀城碑/壺碑」(宮城県多賀城碑)を加え「日本三古碑」と呼ぶ。これには「宇治橋断碑」(京都府宇治市)も含める場合もある。いずれも飛鳥時代~奈良時代にかける8世紀前後の建立とされている。古来古墳時代から鉄剣や石などに文字を刻み、墓の墓誌や死者の副葬品、あるいは特定の出来事を記録する記念碑など多種多様の金石文が作られた。多くが時代の闇の彼方に姿を消すものの、金属や石などの剛健な物に刻まれている事から、伝来、若しくは発掘された場合、当時の出来事を鮮明に伝えるものとなる。そうした石に刻まれた金石文、即ち「碑」の中で、書道史上から重要とされ「日本三古碑」(明治時代)と言われるようになった。→「多賀城碑」 |
多胡碑は、奈良時代初めの和銅4年(711)に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑。碑身に笠石をのせる形状や楷書体の文字には、当時最先端の中国文化の影響がみられる。 一方で18世紀以降に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、その書風が評価され、後世の日本の書家にも影響を与えた。このように、多胡碑は東アジアの文化交流の様子を示す重要な資料である。 |
上右端の碑は「多胡碑記の碑」。「碑文」は早く出来ていたが経費の関係で、大正5年(1916)に建立された。碑は根府川石、碑文の撰と篆額は細川潤次郎文学博士(明治12年冬、上野三碑を巡覧し記録に残す)、書は当代日本随一の書家日下部鳴鶴の筆。 |
「多胡碑記念館」(吉井いしぶみの里公園)は、2017年10月31日にユネスコ「世界記憶遺産」に「上野三碑」が登録されたことを記念し内部の撮影禁止が解除、今年2019年3月31日まで観覧料が無料になった。 |
山上碑(高崎市山名町) | 多胡碑(高崎市吉井町) | 金井沢碑(高崎市山名町) |
「多胡碑記念館」には、「上野三碑」は勿論、それ以外(以下掲載)のレプリカも展示されている。 |
仏足石歌碑 | 仏足石(奈良県西ノ京 薬師寺蔵) | |
「仏足石歌碑」ならびに「佛足石」は、「薬師寺蔵」(奈良県西ノ京)にあり、仏足石は天武天皇の孫・文屋智努(文室浄三、智努王)が753年(天平勝宝5年)亡き夫人(または母ともいわれる)の追善のために作ったもので、仏足石歌もこの頃作られたと見られている。仏足石歌は「五・七・五・七・七・七」からなる和歌の形式は、「仏足石歌体」と呼ばれている。 |
【山上多重塔】(塔婆) 群馬県桐生市 | ||
「山上多重塔」(石造三重塔)は、四面に刻字されているが、正面(南面)は狭い格子で撮影出来なかった。 |
東面 | 北面 | 西面 |
刻字内容は、 |
【那須国造碑】 栃木県大田原市 | ||
「那須国造碑」(なすのくにのみやつこのひ)は、永昌元年(689)、飛鳥浄御原の大宮から那須の国造であった那須直韋提は評督という評(後の郡)の長官の官職を賜り、その後、庚子の年(700)に亡くなったため後継者の意斯麻呂らが、碑を立てて故人を偲び祀ったということなどが記されています。 |
【犬追馬場跡】 栃木県大田原市 |
「 |
【建中寺】(芦野氏新墳墓) 栃木県那須町 | ||
「黒羽」から「境の明神」に抜ける国道294号(旧陸羽街道)は幾度となく通り「白河越え」をしている。その「那須町芦野」に「建中寺」というお寺さんがある。そこには「芦野氏新墳墓」があるというので立ち寄った。 |
遊行柳(元禄二年四月二十日);又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔にのこる。此所の郡守戸部某の、此柳みせばやなど、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立ちより侍つれ。その「戸部某」とは、19代当主芦野資俊(俳号桃酔、江戸蕉門の一人)のこと、元禄5年6月26日(1692)に死去すると保寧山建中寺境内に葬られ、以後、建中寺が芦野家歴代の菩提寺となる。 →説明板 |
なお、18代までの墓は、「芦野氏旧墳墓」としてある。→「浪漫紀行」第861話(2017.12.1)参照 |
芦野の歴史を見守ってきた「墓守山桜」を背に里を見下ろすと「遊行柳」が指呼できる。 | ||
春まけて枯木みせばや蘆野の地 |
【遊行柳】 栃木県那須町 |
「立春」、明けて11日、今年は「雪なし暖冬」・・・・車を走らせ「遊行柳」に着いたのは 14:24 、昼前から暖房から冷房に変え上着も脱ぎ捨てる。 |
ひとつ脱て旅の未知草余寒なほ |
「遊行柳」には勿論、芭蕉の句碑がある。「田一枚植て立去柳かな」、「おくのほそ道」(遊行柳)元禄2年4月20日、「芦野遊行柳」での作。 |
歌枕「遊行柳」、漂泊の歌人「西行」の歌碑「道のべに清水流るるしばしとてこそ立ちどまりつれ」がある。 |
【境の明神】(住吉明神) 栃木県那須町 |
「境の明神」は、下野(栃木)側にある住吉明神(男神;中筒男命/外敵を防ぐ神)と、睦奥(福島)側にある玉津島明神(女神;衣通姫/国を守る神)との二明神で守る。 |
【白河二所之関址】 栃木県那須町・福島県白河市 | ||
白河二所関址碑、「白河の関」は二つある。「追分の明神」(住吉明神・玉津島明神)→「浪漫紀行」第865話(2018.3.16)も参照。 |
【境の明神】(玉津島明神) 福島県白河市 | ||
「玉津島明神」には芭蕉の句碑がある。「風流のはじめや奥の田植え唄」、「おくのほそ道」(白河の関)元禄2年4月、「白河の関」での作。この句の句碑は、「法圓寺」(福島県桑折町)にもある。「法圓寺」様では、こぼれ話(俳諧田植塚記)がある。→「浪漫紀行」第850話(2017.8.18) |
【衣がえの清水】 福島県白河市 | ||
「衣替えの清水」は、奥州街道沿いの白坂宿と境の明神の途中にある。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が「奥の細道」で奥州街道を北上し、ここを通過して「白河の関」に向っている事から芭蕉が衣替えの清水に立ち寄った可能性がある。(河合曽良の日記には記述無し)→説明板 |
【観音寺】 福島県白河市 | ||
「観音寺」は、白坂宿の本陣と問屋を歴任した白坂周右衛門家の菩提寺。夕日堂は、古くから金売吉次の埋蔵金伝説が残る。「奥の細道」の名残り(門前通過しているはず)の一つでもあろうかと立ち寄ってみた。そこまで・・・・拾い集める根性に我ながら飽きれた。ここで、15:00(予定15:40)、高速利用を一般道に変更し北上。 |
【高屋敷稲荷神社参道鳥居】 福島県郡山市 | ||
「浪漫紀行」第820話(2016.11.18)、国道6号いわき市より御斎所街道を通り郡山市に抜けた際に「高屋敷稲荷神社」の参道鳥居に目が止った。何時か改めて・・・・あれから早や2年余り経つ。 | ||
「高屋敷稲荷神社」を16:57に発ち、仙台着20:44(予定20:30)、本日の走行距離は492km。明朝の会議は社長様の計らいで1時間繰り上げ14:13に仙台を後にした。ほぼ全行程(仙台東IC→仙台南IC→佐久IC)を高速利用、新幹線利用時より早く帰宅出来た。全走行距離は927km。来月から、「仙台東IC→白河IC」は高速を使おう。 |