奥の細道 ; 酒田-吹浦-象潟と平泉 |
2014.10.19(金) 晴 |
「芭蕉・曽良の句碑めくり」も12回を数え、句碑の数も述べ156碑になった。俳句はもとより文学の方面には趣も薄かったが、今や病み付きの状態で「仙台出張・旅の未知草」も年内の予定が出来上がっているほどだ。 しかし、「酒田-吹浦(遊佐)-象潟」と「平泉」は、仙台出張の「未知草」にしては足を伸ばし過ぎるのではないかとの思いもあり「そのうちに」と思案中であった。 |
||
数日前に巨大台風19号が関東から太平洋側を北上した。台風一過でなく、その影響が残り酒田と吹浦は6時まで、象潟も9時以前は雨との予報だった。22時に家を出た時は星空だった。酒田に着いたのは5時10分、東の空が明るく日の出も確認出来たので傘を持たずに最初の「山居倉庫」を見て回った。変り易い天気という予報通り、駐車場から最も離れた所で激しい風雨に見舞われずぶ濡れになった。 | ||
小雨のなか「芭蕉ゆかりの地」や「古い街並み」は車窓から撮影して回った。雨宿りのロス(余裕)は1時間半程度とってある。後味がすっきりしない「山居倉庫」の撮影にリベンジするも、結果は再び嵐に返り討ち。渋々酒田最後の「日和山公園」へと車を移動させた。 | ||
「句碑めぐり」以外は【旅の未知草;「酒田湊-象潟」と世界遺産「平泉」】をご覧ください | ||
【日和山公園】山形県酒田市南新町 | ||
海岸に面した「日和山公園」、車外に出るに気が引けるほどの激しい風雨、しばらくして傘を差し「文学の散歩道」を・・・・ここには「3つの句碑」がある。 | ||
「奥の細道」旅中、酒田「鐙屋」で開かれた句会での作。句碑①「初真桑 四にゃ断たん 輪に切ん」(はつまくわ よつにやきらん わにきらん)/芭蕉、句碑②「初瓜や かふり廻しを おもい出つ」(はつうりや かふりまわしを おもいたつ)/曽良。 同句会で詠まれた地元俳諧師の句も刻まれている。「三人の 中に翁や 初真桑」/不玉(庄内藩お抱え医師伊藤玄順)、「興にめでて こころもとなし 瓜の味」/玉志(玉志近江屋三郎兵衛/廻船問屋36人衆の一人)。 |
【日和山公園】酒田市南新町 | ||
芭蕉像の左に句碑がある。ここは日和山公園の最上部になり、先刻立ち寄った「旧白崎医院」の近くだ。 時からの風雨は記憶まで消し去り「伊藤不玉の句碑」を見逃したことは悔やみ切れない。 | ||
句碑④「暑き日を 海に入れたり 最上川」(あつきひを うみにいれたり もがみがわ)、「奥の細道」旅中、酒田「不玉邸」滞留中の作。 |
【芭蕉ゆかりの地】酒田市 | ||||
「玉志近江屋三郎兵衛宅跡」 | 「皇太神社(神明様) | |||
「伊藤不玉宅跡」 | 「安種亭令道(寺島彦助)宅跡」 | 「芭蕉坂」 | ||
寺島彦助は酒田湊の浦役人(幕府米置場管理)であり「安種」または「詮道(令道)」という俳号を持つ。 |
【出羽二見】遊佐町吹浦 | ||
句碑⑤「あつみ山や 吹浦かけて 夕すずみ」(あつみやまや ふくうらかけて ゆうすずみ)、「奥の細道」旅中、象潟から酒田に戻る道中で詠んだ句。 |
山形から秋田への県境を9時少し前に超えた。天気予報通り青空が見える。浜風が強いのは天候のせいではなさそうだ。途中、風力発電の風車が何基も連なって見えた。秋田県は、新婚当時の東北ドライブで「角館」に行っただけなので2度目ということになる。 | ||
【三崎公園】秋田県にかほ市象潟町 | ||
国道7号(羽州浜街道)を北上し、山形と秋田の県境を超えた時、左手に「奥の細道三崎峠」なる標柱を見掛け急停止した。 地図で調べると「三崎峠」は、当地より800mほど山側だが・・・・。 |
||
【三崎公園】にかほ市象潟町 | ||
国道7号を更に500mほど北上すると、左手に「三崎公園」というひょうしきがあり行って見た。 「三崎古道」(三崎山)に「奥の細道」の「文学碑(曽良随行日記)」があった。 |
||
鳥海山の溶岩流が海に流れ込んだ最短位置にある「三崎山」は、長い年月をかけ浸食され断崖絶壁になった。「三崎公園」内には「観音崎」「大師崎」「不動崎」という3つの岬(総じて三崎という)があり日本海に突き出ている。天気が良ければ「羽後三崎灯台」も見たかった。 |
【象潟駅】にかほ市象潟町 | ||
「奥の細道記念切手」は、芭蕉旅立300年を記念し「旧郵政省」が10句を発行したもの。 「象潟」は第7集にノミネートされている。これを記念し建立した。 |
||
句碑とは異なるが「文学碑」に「記念碑」を含めることにしよう。句碑⑨「象潟や 雨に西施が 合歓の花」(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)、「象潟」という地名が入った句を選んだのであろう。 |
【蚶満寺】にかほ市象潟町 | ||
芭蕉が象潟を訪れた頃は「九十九島」(象潟)は、入り江に浮かぶ島々であった。蚶満寺の周囲も海水が打ち寄せていたようだ。句碑⑩「象潟の 雨や西施か ねふの花」(きさがたの あめやせいしが ねぶのはな)、「奥の細道」旅中、象潟での作。(初案) |
【蚶満寺】にかほ市象潟町 | ||
芭蕉像と句碑の隣に「西施像」がある。知っての通り「西施」は「中国四大美女」の一人であるが・・・・。 芭蕉が「松島」との比較において「西施」を引用した。とても奥の深い句と思える。 |
||
「西施像」の脇にある「西施」との関わりについて説明している石碑がある。そこにも、句碑⑪「象潟や 雨に西施が 合歓の花」(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)が刻まれている。 |
【蚶満寺】にかほ市象潟町 | ||
「蚶満寺」には本堂裏手にもう一つの句碑がある。句碑⑫「象潟の 雨や西施が 合歓の花」(きさがたや あめにせいしが ねぶのはな)、句そのものは同じであるが建立は古く「芭蕉70年忌」(1763年)と遡る。 |
【芭蕉ゆかりの地】にかほ市象潟町 | ||
「蚶満寺境内裏庭にある舟つなぎの石」 | 「蚶満寺の舟つなぎの石付近からの九十九島」 | |
文化元年(1804年)に起きた「象潟地震」(推定M7.1)で象潟は1.8~2.0m隆起し「景勝地“象潟”」は陸地と化した。芭蕉が象潟を訪ねたのは元禄2年(1689年)だから1世紀以上後のことになる。蚶満寺の「舟つなぎ石」と水田の高低差は現在数10cmそこそこ、しかし当時は背丈ほどの深さがあっただろう。 | ||
「象潟橋」(欄干橋) | 「象潟橋袂にある舟つなぎ石 | |
芭蕉は象潟滞留中、何度も「象潟橋」(欄干橋)から「九十九島」を眺めたとのことだが、今は家並みで島一つ見ることが出来ない。「島めぐり」をしたというが、この「舟つなぎ石」の舟場から潟に出たのだろうか・・・・・ |
【中尊寺】岩手県平泉町 | ||
この句碑は800円の拝観料を支払わないと撮影出来ない。時間的な制約で「金色堂」を見るのも体裁的なもの、「金色堂」の拝観を終え隣の「経堂」前へと順路をたどると句碑がある。句碑⑭「五月雨の 降残してや 光堂」(さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)。「奥の細道」旅中、平泉「中尊寺金色堂」を訪れた際の作。 |
【中尊寺】岩手県平泉町平泉衣関 | ||
「経堂」から「旧覆堂」に向かう途中に「芭蕉像と文学碑」がある。 露出不足で「奥の細道文学碑」の写真から碑文を読み取ることは不可能・・・・芭蕉の句が刻まれているかは不詳。 |
||
「世界遺産」だけあって観光客が多い。参道ですれ違う観光客の中国語あるいは韓国語らしき話し声で日本語が消えていた。良いのか悪いのか・・・・。 |
【卯の花清水】平泉町平泉柳御所 | ||
県道110号東北本線踏切近くに「卯の花清水」という史跡がある。 湧き出る清水があって、ここを訪れた芭蕉と曽良、その曽良の句から「卯の花清水」と呼ばれるようになったそうです。 |
||
曽良の句碑⑮「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」(うのはなに かねふさみゆる しらがかな)。「奥の細道」旅中、平泉を訪れた際の作。 | ||